可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 牧ゆかり個展『Strange Reality』

展覧会 牧ゆかり個展『Strange Reality』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー58にて、2024年9月23日~28日。

涙・滴・粒、あるいは流れる・伝わる・落ちるといった、眼から縁語のように連なるモティーフによって、束の間姿を表す歪な顔を描き出す、牧ゆかりの個展。

《Princess Pearl》(530mm×435mm)には、額に5つの不揃いの巨大な丸い真珠を5つ付けた女性の顔が描かれている。額の真珠に呼応するように、小さな顎の小さな口に向かう鼻梁鼻が3つの球の連なりとなり、首筋には弧が波紋のように拡がる。眉、目などはシンメトリーだが、右目だけ湛えられた涙が零れ落ちようとしていて、オーラのような青いヴェールに覆われた髪は彼女の右側にだけ垂らされている。

 (略)アコヤガイやアワビの貝殻内面は光沢のある銀白色やグレー色になっている。角度にによってピンクや緑、橙色も浮かび上がる。こうした光沢のある貝殻内面が真珠層と呼ばれるものであり、この真珠層をもつ貝が真珠貝と呼ばれている。つまりアワビも真珠貝になるのである。真珠層の主成分は93パーセントの炭酸カルシウムと4パーセントのタンパク質で、炭酸カルシウムの結晶(アラゴナイト)とタンパク質(コンキオリン)が交互に重なって真珠層が形成されている。
 真珠層は、貝の外套膜の外側上皮細胞が作っていく。外套膜は貝の身をマントのようにすっぱろ覆う組織であるが、外套膜の外側(貝殻側)の上皮細胞が真珠質を分泌する機能をもっている。外側上皮細胞は何らかの拍子にその一部分が外套膜の結合組織内や貝の体内に入りこむことがあり、その場所で細胞分裂して袋状になることがある。その形で真珠質を分泌しつづけると、真珠層は袋の中できれいな球形となっていく。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社中公新書〕/2013/p.2-3)

「真珠姫(Princess Pearl)」の右目から流れ落ちようとする涙は真珠質の分泌を、鼻梁における球形の連なりは真珠の形成を、それぞれ暗示しよう。因みに《Dripping》(410mm×318mm)には真珠は登場しないが、鼻梁と顎に球形の膨らみが表されている。涙は顎を伝わり落ち、大きな滴となって流れ落ちる髪とともに滴っていく。左目の脇のガラス状の輝く粒が立体的で印象的である。鍾乳石(stalactite)であろう。"stalactite"の語源は古代ギリシャ語の"σταλακτός (stalaktós)"であり、"dripping"のことだからである。
再び《Princess Pearl》に目を転ずれば、グレーの背景は貝殻の内側を、さらに真珠姫の左側のゾウリムシ状のイメージは外套膜内の貝の身を、想起させよう。真珠質の分泌による真珠層の形成は、絵具が重ねられて描かれる絵画のメタファーに他ならない。絵画は真珠であり、真珠を生み出す母貝でもある。この点《Pink Color》(530mm×455mm)では髪が全体に湧き出す水のようにあるいは襞のように表され、顔はそこを突き破るようである。ピンク色の背景と相俟って、女性の器官(顔を覗かせるのは拡がった膣口であり、アクセントとなる髪の中の小さな穴は尿道口)を表しているのではなかろうか。貝は女陰のメタファーであり、サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)の《ヴィーナスの誕生(La Nascita di Venere)》よろしく、絵画誕生の瞬間を描き出すのだ。薔薇の花びらの中心に目を描く《Strange Rose》(530mm455mm)も、膣口からの眼差しとして同旨の作品と解することが可能である。
表題作「Strange Reality」シリーズもまた、生成し変化する生物的な絵画の試みと言えよう。《Strange Rreality Ⅰ》(530mm×455mm)、《Strange Rreality Ⅱ》(410mm×318mm)、《Strange Rreality Ⅲ》(410mm×318mm)では、《Princess Pearl》などと同様に正面を向く顔であるが、《Strange Rreality Ⅳ》(1167mm×910mm)では女性の顔は左向きである。その顔を複数の真珠のような球体が覆い、あるいは顔の輪郭が成長していくように外側に重なり拡がっていく(《Strange Rreality Ⅴ》(1167mm×910mm)も右向きの横顔で表される)。
《Strange Rreality Ⅵ》(227mm×158mm)は少女の全身像で、目を抱え、あるいは目が宙空に浮いている。他の作品と趣を異にするようだが、絵画の想定する一点からの眼差し、すなわち静的なイメージを退け、複数の眼差しを文字通り画面に導入することで、動的なイメージを生み出そうとしているのではないか。それは常に変化する生命を捉えようとする企てと言って良い。《願いごと》(727mm×606mm)の女性の顔において、左右の目が大きく上下にズレているのも、常に流動する世界を捉えたいとの真摯な態度の表明であろう。