展覧会『たまびやき 第10回多摩美術大学大学院美術研究科工芸専攻 陶選抜作品展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2024年10月7日~12日。
多摩美術大学大学院美術研究科工芸専攻陶コース修士1年に在籍する小室茉莉と神通舞子の作品を、個展形式で紹介する企画。小室茉莉は、「悉く本当」と題し、人物や人物を配した作品6点で構成。神通舞子は水の中に存在する生命の形をイメージさせる「無意のなかに」シリーズ3点を出展。
小室茉莉《わたしの私》(1730mm×360mm×580mm)は、嫋やかな女性の立像。縦に引き伸ばされたプロポーションが特徴で、とりわけひょろりと長い首とその先に傾いた頭部が発芽のようで印象的である。水が流れ落ちるようなドレープのドレスは裾が足元に拡がる。発芽、流水が縁語となって、女性像を生命の象徴へと高めるようだ。他の部分の具象性とは趣を異にする、耳以外の要素をそぎ落とした頭部が抽象化に資する。陶の表情は、茶の上に白が重ねられ、カサカサとしている。成長に用いられる水と余分な水の排出とは、生命=時間の循環のメタファーではなかろうか。背後に廻ると、胸部に洞が拡がり、その内部に3体の人物が存在する。タイトルからすれば複数の人格ないし分人的な在り方を表現していると言えよう。アニメーション映画『インサイド・ヘッド(Inside Out)』(2015)が描くような感情の擬人化と解することも可能だろう。もっとも、女性像を生命=時間の循環と解するとき、「わたしの私」とはわたしから「私」へと個々の生死を超えた生命の果てしない連続と捉えることがもできるのではなかろうか。生命の円環の中に生じた存在を人物として表すような《片割れのあなたへ》(450mm×300mm×280mm)や、割れた卵の中から出てきた2人の人物を表した《似て非なるもの》(260mm×450mm×280mm)も同テーマの作品と解しうるのである。全ての作品に台座として伴う灰青の陶板もまた、生命を1つとして捉える発想が現われではなかろうか。
神通舞子の「無意のなかに」シリーズは、突起ないし管、あるいは葉のようなものが組み合わさった、海藻や珊瑚といった水中の生物の形を彷彿とさせる作品群である。
やきものが持つ材質感は、私の意図より先に、粘土がなりたい形へと姿を変えているように感じる。私は粘土の意思に従うように、時間をかけて内から外に広がっていく形態を造形している。その行為は、見えない時間の流れをやきものを通して投影させているようである。(神通舞子による本展ステートメント)
神通舞子の主張は、ベルクソンの予見不可能な創造性に極めて近しいと思われる。生命を持続的な流れで捉えようとする点で、小室茉莉と神通舞子の制作姿勢は一致していると言えるのではなかろうか。