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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『松本竣介展』

展覧会『松本竣介展』を鑑賞しての備忘録
ときの忘れものにて、2024年10月4日~10月19日。

松本竣介(1912-1948)の3点の油彩作品《構図》(1940)・《顔(自画像)》(1940)・《Y市の橋》(1944頃)にデッサンを加えた展観。

《構図》(1940年9月)の赤褐色と白とが混在する画面の下側には複線の鐵路を表すような2つの線が中央でやや離れながら左右に延び、画面上端付近に電線らしき1本の線が画面を横断する。その2つの線の間に建物や線路などの構造物、煙突や配管などの設備類、トロッコ(自動車?)や車輪(自転車?)などの運搬装置、さらには5人の人物などが配されている。人物は頭部の円と胴体・両腕・両足の線で記号化され(但し、1番大きい1人だけは頭・胴・脚が面で表され、帽子やボタンなども描き込まれる)、両腕を拡げている。人物の近くには枕木と鐵路あるいは梯子のような線が"」"字状に延び、近くには日輪のような円の黒い輪郭と、ややズレた赤い円とが描かれている。人物や「日輪」の背後は青い絵具が塗られている。都市の地上を描きながら、そこだけは空が映り込んでいるようだ。影送りのイメージが重ねられているようだ。
《街》(1938年8月)や《都会》(1938年9月)など都市景観に人物を重ね併せる試みは以前から行われていた。第1回個展(1940年10月)に出展された《黒い花》(1940年9月)では赤を中心に青を配した画面に都市景観と人物を自転車や樹木などとともに描き、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(1940年10月)に出展された《街にて》(1940年9月)では青い画面に都市と人物や自転車を描いている。もっとも、それらの作品では人物の姿が目鼻や衣装なども含めて具体的に描写され、なおかつ建物などに比して大きい。建物などの構造物は人物が都市に存在することを示す文字通りの背景であった。それに対して《構図》では、人物はほとんど落書きのような記号として、建造物その他の中に組み込まれているのである。線路や車輪が画面に運動のイメージを吹き込み、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのようにも見える。ならば、人間が歯車になる(巻き込まれる)映画『モダン・タイムス(Modern Times)』(1936)の諷刺に通じると解することはできないだろうか。
ところで、《構図》のサインには「2600.9」と記されている。1940年は神武天皇即位から2600年とされた年で、11月に催された政府主催の式典を始め各種のイヴェントが催された(当初計画されていたオリンピックと万博とは国際情勢から開催できなかった)。松本竣介は「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」第二部西洋画に《街にて》を出展しており、同作にはサインとともにやはり「2600.9」と記されている。もっとも、《黒い花》には「15.9」(昭和15年9月)と記されている。「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」へ出品を予定していたか否かで記載方法を違えたのであろうか。

 10月1~22日と11月3~24の両期間、東京府美術館(現東京都美術館)で開かれた(のち京都にも巡回)、紀元2600年奉祝美術展覧会は、文部省が中心となって、当時まだアカデミックには市民権を得ていなかった写真は別にして、美術界のほとんどのグループが参加して行われた大展覧会である。その図録が残っている(『紀元二千六百年奉祝美術展覧会目録』)。私はこの図録を国立公文書館で見たが、出展総数は575点、力作が多く、現代の素人愛好家でも知っている作家も多数名を連ねているし、作者が著名かどうかはともかく、現在でも企画展などで本展出品作が展示されることがある。
 気になるのは作品の内容である。様式は多岐にわたっており(ナチス期のドイツのように擬古典風がとくに多いということはない)、題名から、だれが見ても明らかに紀元2600年にちなんだ作品(洋画にはずばり「紀元2600年」と題する抽象画がある)は全体の1割ほどで、戦争画や歴史画、占領地(中国)を描いたもの、「八紘一宇」などのイデオロギーを表象化したもの、富士山のような国粋的な題材(横山大観も得意の題材の富士山で「日出処日本」を出展している)など、紀元2600年に多少とも関連があるものは2割ほどで、あわせて3割ほどとなる。
 この3割という数字には議論の余地がありうるが、テーマや様式の多様性がたもたれていることはまちがいないので、全体としては、ナチスソ連の美術展のように特定のイデオロギープロパガンダのために構成されたのではなく、それぞれの作家が持味を生かして自信作を寄せることで当時の日本美術界の水準の高さを示し、その結果として日本の国威を国民に印象づけようとした美術展であると意義づけられる。(古川隆久皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』中央公論新社中公新書〕/1998/p.213-214)

仮に《構図》が「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」への出展を予定していたのなら、総力戦体制下の日本を『モダン・タイムス』的に揶揄する狙いがあったのであろうか。

 しかし全体として、一般の大人は〔引用者補記:皇紀2600年奉祝の〕式典前後の期間を楽しめるだけ楽しむか、それができなければ適当にやり過ごしたのであり、本気で感激したのは全体からみれば少数であったと考えてまちがいない。こうした状況について説得力あるせつめいに成功しているのが広田照幸氏である(『陸軍将校の教育社会史』)。すなわち、「戦時体制を実質的に担っていた年齢層〔一般市民のこと〕は必ずしも強固なイデオロギー教化を経験していない」ことを指摘した上で、「教化」は、「何が正しいのか」についての「合意形成」には成功していたが、憲兵や教員など「戦時体制を積極的に担っていた」人々ですらその規範(「滅私奉公」)を内面化するまでには至っておらず、「立身出世」志向と規範が「相互浸透」していたと指摘している。
 つまり、一般国民は奉祝記念行事には義務的に参加していたに過ぎず、彼らにとって「紀元2600年奉祝」とは、長期的には五輪や万博といった「世紀の大イベント」や地元における社会資本整備といった奉祝記念事業であり、短期的には、祝典の前後だけ娯楽に関する政府の統制が緩められたことに示されるように、戦時体制下における「息抜き」の手段(「『八紘一宇』のかげで」)の1つだったのである。(古川隆久皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』中央公論新社中公新書〕/1998/p.201)

「2600.9」の記載のある《構図》を、松本竣介による「2600年」の日本の批評として読み解くことは可能であるように思われる。