展覧会『青野文昭「それぞれの惑星とその住人達」』を鑑賞しての備忘録
LOKO GALLERYにて、2024年9月27日~10月26日。
主に中古の箪笥を支持体に雑多な廃品を埋め込みや接着により組み合わせた立体作品と、雑誌の切れ端に加筆した平面作品とで構成される、青野文昭の個展。
《各々の惑星とその住民たち-②(なおす―代用・合体・連置・集積・立ち上げ)2024》(2810mm×3180mm×910mm)は、2竿の異なる種類の箪笥を左右に接合し、空き缶やペットボトル、手袋や人形などを埋め込んだ作品。箪笥の中には紙類や衣類など雑多な物が仕舞われているのが、開いた抽斗や穿たれた穴から見える。先端部分しかないカラーコーンに失われた部分が描き足され、樹木に根や枝が作り足されているのは、タイトルにあるように「なおす」意図に基づくのであろう。ベニヤ板で作った依代の人形(ひとがた)のような平板な人物や犬猫が箪笥の上を闊歩する。シューズは歩く人を暗示し、自転車には人形が跨がる。
《各々の惑星とその住民たち-③(なおす―代用・合体・連置・集積・立ち上げ)2024》(4010mm×1980mm×1230mm)には、異なる2竿の箪笥を縦に接合して樹木の断片を埋め込んだ作品。重ねられた箪笥ととともにベニヤ板で作られた枝や根により樹木が高く聳える。この樹木の根とともにサンダルを履いた人間の脚が箪笥のタワーを支える。箪笥に埋め込まれた人物には目鼻の表現がある。ベニヤで作られた人や猫、鳥などが作品の周囲を駆け回っている。
《各々の惑星とその住民たち-④(なおす―代用・合体・連置・集積・立ち上げ)2024》(2330mm×1780mm×600mm)は1竿の箪笥に石油のポリタンクや樹木を組み込んだ作品。目鼻が描かれ、あるいは、口から腸への消化管が紐で表された人が組み込まれている。黄色い長靴に接続された人形(ひとがた)はキュビスム絵画を思わせる表現で立体感を加えてあり、ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)の《空間における連続性の唯一の形態(Forme uniche della continuità nello spazio)》(1913)を彷彿とさせる。ボッチョーニは《空間における連続性の唯一の形態》により運動の表現を試みているが、「各々の惑星とその住民たち」シリーズにおいて作家に運動を表現する意図があることは、いずれの作品も樹木の根や人形(ひとがた)の脚などの高さを揃えず傾斜を付けてあることから明らかである。《各々の惑星とその住民たち-②》では、箪笥上の人々が行進し、自転車は映画『E.T.(E.T. The Extra-Terrestrial)』(1982)の名場面よろしく宙空へ飛び出す。《各々の惑星とその住民たち-③》では側面を下に向かって箪笥の側面を直滑降するような人形(ひとがた)が印象的である。箪笥の面は大地(terra)であり惑星地球(terra)なのだ。人形(ひとがた)は直方体状の箪笥のそれぞれの面を大地として立つため、展示室の床に対しては90度傾き、あるいは反転・倒立することになる。
「見る」という身体的な所作が作品の形成と、より直截的かつ指標的な連続性を持つ写真家という特殊な機能において、自らがアノニマスな存在に転身することと己の作者性の確立とは、明瞭には違反する二項である。こうした作者性と匿名性の背理、言い換えれば記録と表現の背理に自覚的であった写真家の一人として、東松照明を挙げなければならない。(略)東松は「日録」〔引用者註:東松照明が1967年12月20日~1968年1月19日に撮影した写真を纏めた作品集〕の「あとがき」にこう記している。
写真とは、根源的な意味で、記録である。写真は進行する時間を切断する。カメラによって切り取られた時間はその瞬間から過去となり、瞬間の累積として写真は歴史そのものとなる。もし、写真家の存在が、時代を証明し、それが多くの人たちに役立つなら、ぼくは、アノニマスな一人のレポーターとして、写真上であることを喜んで引き受けよう。
素朴な記録性への回帰の宣言と読まれうるかもしれない。しかし東松は遅くとも1960年代初頭、戦前から続く報道写真の旧套性を厳しく批判する中から、基地、長崎の原爆の記憶、そして個人的かつ集合的な記憶を内包する「家」といった、歴史とその現在の様態に対峙するすぐれた作例を遺していく。「アノニマス」という措辞は、膨大な日本写真史の作例を渉猟する経験を経て「記録」の重要性に改めて想到したこと、また歴史を孕む現在にも見出される事物と己の作者性とを付き合わせて、事物の側の優位を見出したことの証でもある。あるいは顧慮されることもなく世界の一隅でいまも可視化されずにきたアノニマスな「もの」をして、自発的に語らしめようとする構えの証かもしれない。自らをいったん受容体の位置に後退させるその構えが結果として、よりいっそう強固な写真家主体を再帰させる発条となったにせよ。(倉石信乃「箱男、犬、写真家」『現代思想11月臨時増刊号』第52巻第15号/2024/p.250-251)
「各々の惑星とその住民たち」シリーズで廃品を集積し、接合し、立ち上げるのは、「顧慮されることなく世界の一隅でいまも可視化されずにきたアノニマスな『もの』をして、自発的に語らしめようとする」ためではなかろうか。作家がその制作を「なおす」行為と捉えるのは、「事物の側の優位を見出し」「自らをいったん受容体の位置に後退させる」意図の反映と言えよう。
箪笥という箱と、その箪笥を構成する複数の抽斗という箱。箪笥は入れ籠の箱であり、複数の世界の複合体である。その箪笥すなわち抽斗の中を覗く行為は、時差を伴った窃視行為である。箱と窃視。安部公房の小説『箱男』に登場する、段ボールを被って穿った穴から外界を窃視する「箱男」と、赤瀬川原平の宇宙の缶詰よろしく内外を反転させれば、作家は(逆)箱男となる。作家はダンボールと発泡スチロールの箱とを、ジキル博士とハイド氏よろしく一体化させた《なおす・代用・合体・侵入 2009(スチロール容器/ボール箱)》(300mm×210mm×250mm)という作品をかつて制作しており、変容への強い関心も示している。
ところで、倉石信乃は、「箱男」を先取りする存在として写真家の東松照明を取り上げている。
箱の窓を額縁にして覗いたとたん、すっかり様子が違ってしまう。風景のあらゆる細部が、均質になり、同格の意味をおびてくる。タバコの吸殻も……犬の目脂も……カーテンが揺れている二階屋の窓も……ひしゃげたドラム罐の皺も……ぶよぶよした指に食い込んでいる指輪も……はるかに鉄道のレールも……濡れて固まったセメント袋も……爪の垢も……しまりの悪いマンホールの蓋も……でも、ぼくはそんな風景が大好きだ。遠近が定まらず、輪郭が曖昧で、ぼくの立場とも似通っているせいかもしれない。ゴミ捨て場のやさしさ。箱から覗いているかぎり、どんな風景も見飽きることがない。
小説『箱男』の中でも特に、安部とナレーター、そして「箱男」のキャラクターが重なりながら、こぞって写真家的な「視座」に限りなく接近した言辞であり、場面だろう。(倉石信乃「箱男、犬、写真家」『現代思想11月臨時増刊号』第52巻第15号/2024/p.252)
「各々の惑星とその住民たち」シリーズの箪笥に組み込まれた雑多な物は天地無用ではない。箪笥が惑星であるなら、文字通り上も下もないのだ。そこには、箱男同様、世界を等価に捉える眼差しが存在する。そして箪笥を惑星のアナロジーとして眺めるように世界を地質学的スケールで捉えるなら、揺れ動く大地は流体も同然であり、打ち棄てられた品々同様、人もまた束の間存在する影=光に過ぎない。箱(箪笥)男の提示する作品によって、鑑賞者は刹那の光を捉える写真家、(逆)箱男になるのである。