可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 KONA個展『鏡のフーガ』

展覧会『KONA solo exhibition「鏡のフーガ」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14 casにて、2024年10月19日~31日。

KONAの絵画展。

メインヴィジュアルの《Kwan Yin》には、右手前から奥へと合わせ鏡の像のように果てしなく続く鏡と洗面台と前に立つ女性が茫漠とした灰色の空間に表されている。連続する鏡の鏡面は曇って何も写し出していないようでもあれば、灰色の模糊とした空間を如実に反映しているとも言える。鏡の列とともに奥へ連なるクリムゾンの洗面台とが消失点へ向けて三角形を形成し、なおかつやや黄色を帯びた天井がそこに向かって収束し、視線を吸い込む。その消失点の傍に女性の頭部、左目が位置する。女性の顔は白とくすんだ黄緑などで表され、鼻、口、耳の輪郭は表されるが、目は曖昧であり、頭髪は表されていない。腰まで描かれるすらりとした身体は下ろされた長い腕によって視線を顔から胸、原へと誘導する。洗面ボウルの連なりにより、視線は再び消失点へと向かう。工業製品で構成された無機質な空間に組み込まれたマネキンのような身体は、映画『ブレードランナー(Blade Runner)』(1982)のレプリカントを連想させ、技術により操作される生命を主題にするように思われる。レプリカント的女性の眼差しが自らを映し出すであろう鏡からやや反らされているところに、変異ないしコントロールからの逸脱が仄めかされている。そのような変化の予兆・期待として、彼女の臀部の近くにコーラルピンクが差されている。
表題作《鏡のフーガ》には、4等分した4つの場面に跨がるように、中央に丈の長い赤い皮のジャケットを羽織った女性が正面を向きに佇む姿が描かれている。右上の画面には行き交う車と広告看板、梯子などが桃色がかった靄に包まれた空間に表され、右下には半透明の箱の連なりのようなビル群に走行する車が重ねられている。左上の画面には水辺に広がる林の上を白い鳥が舞い、左下には木々を映す緑の水面が配される。自動車や看板や梯子や建築物と、鳥や林や水辺とでは一見対照的である。だが、自動車と鳥、看板や梯子と木々、建築物と林などはむしろ等価物として捉えられているのではないか。その等価性を支えるのが4画面に跨がる女性である。舟越桂の女性像を連想させる彼女は、周囲の世界の音を受けて吸収し、画面に静寂をもたらす。それは電源を落として世界を眺めることのメタファーであろう。知覚の対象は、すなわち現実を構成するのは、液晶ディスプレイの画面である場面がますます増えている。スマートフォンを眺めながら歩き、広告はデジタルサイネージとなり、建物の壁面もディスプレイに覆われていく。映画『ゼロの未来(The Zero Theorem)』(2013)に描かれるような街が半ば現実化している。左上の水辺の林に対して左下の水面は鏡像である。すなわちイメージである。右上の自動車や看板広告などの物の世界は、右下の蜃気楼ないしデジタルツインのイメージに取って代わる。その全ての交点に女性が象徴するが人間が立っている。彼女が見詰めるのは、実像と虚像とで構成された現実なのだ。
《Hestina》には、白にピンクが差されることでピンク色の印象を受ける髪を持つ女性の横顔に、茶色い自動車のイメージが重ねられ、さらに彼女の向かいには黒い肌の女性の横顔が配されている。ピンクの髪にとって車は乗り物(vehicle)であり足である。なおかつメディア、伝達手段(vehicle)でもあろう。自らの存在はSNSによっても構成されているのである。彼女が向き合う相手は、目の表現のない模糊としたシルエットのような女性の横顔が象徴する、実体の不明な不特定多数の他者なのである。画面右下には上から眺められた靴(右足)が描かれている。これは第三者の視点を暗示する。画題の"Hestina"は蝶のことであるが、それは「胡蝶の夢」を暗示するためであろう。異なる主体へと変容し、世界を変える可能性を示唆する。それがたとえガラスの靴の煌びやかな世界ではないにせよ。