可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 片山香帆個展『わかりあう・わかりあえない』

展覧会『片山香帆個展「わかりあう・わかりあえない」』
GALLERY b.TOKYOにて、2024年10月28日~11月2日。

抽象絵画で構成される、片山香帆の個展。

 〔引用者補記:ジョン・D・グラハムが『芸術における体系と弁証(System and dialectics of art)』(1937)で主張していることを〕要約すれば「芸術とは抽象に至るプロセス」であり、抽象とは感覚によって得られた現象をいかに人が把握するかということ、主観的に感覚される現象から、より普遍的、総合的な秩序=形式を把握する能力、その活動に関わるということだ。この意味で、芸術は視覚(より広くいえば感覚)的な現象に還元され定着されるものではない。この抽象作用という認識プロセスそのものに関わり、それを作動させる動的な装置なのである。このように、1937年の時点(「アール・コンクレ」などの運動と同時代)でグラハムが行った芸術の定義および抽象の定義は、のちにグリンバーグが抽象表現主義を還元してしまったところの視覚性(視覚的効果)とは大きく異なっていた。
 作品を外部から入力された感覚与件、および内部で感受される感情の束から、認識=統覚に至る「プロセス」と考え、そのプロセスを構造づけているシステム=論理的マトリックスに至ろうとするグラハムの理論は、芸術を認識と知覚のズレ(隔たり)から生み出される、(主体の自己同一性を含む)既成概念の解体と変容、認識の拡張可能性と考える点において概念芸術をも先取りしていた。社会化され、反復的、安定的に人史されうる(と考えられている)表象システム(記号認識、図像認識、様式認識など)は実際に認識される個々の場面では、常に揺動し、崩壊する可能性に晒されている。彼が依拠しているのは、その表向きの表象秩序を超える、より広く深い、線的な歴史展開に収まらない深層構造のリアリティだった。(岡﨑乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.120-121)

メインヴィジュアルの《希望(希望的観測)》(1620mm×1303mm)は、一面の山吹色の周囲を水色が囲う作品。水色の縁の幅は一定ではなく、所々で黄色が食み出す。キャンヴァスの上下左右にも水色が塗られている。山吹色の絵の具を染み込ませた画布に青で渓谷を描いた、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)の《イェロー・キャニオン(Yellow Canyon)》(1968)のようなフィールドペインティングの系譜に連なるが、具体的な対象が描かれてはおらず、より抽象度の高い作品と言える。それでもモイズ・キスリング(Moïse Kisling)の《花瓶のミモザ(Vase of mimosa)》(1952)の連想から、ミモザが春の訪れを告げる花であることから、「希望」を描いた作品と解することは可能だ。
縦長の《希望(希望的観測)》と向かい合うように反対側の壁面に展示されている横長の《自由(隔絶)》(1303mm×1940mm)は、黄緑の色面の縁を赤が囲う。やはり画布の上下左右にも赤が塗り込められているが、画面に対する赤い縁の比率は《希望(希望的観測)》の水色の縁に比して小さい。自由を制約する縁を表わしつつ、その面積を最小化することで自由の度合いを高めるのだろう。縁という制約の存在があるからこそ、自由、及びその最大化を感覚できるのである。
《希望(希望的観測)》は山吹と水色、《自由(隔絶)》は黄緑と赤と、それぞれ反対色ないし補色に近い色の組み合わせである。両作品とも縁に絵具が塗られているために気付きづらいが、単に山吹の縁を水色で塗り、あるいは黄緑の縁を赤で塗っている訳でない(僅かな飛沫の残存からピンクなど他の色が用いられている可能性もある)。それぞれ水色の上に山吹、赤の上に黄緑の絵具が重ねられている。また、縁の表現も、山吹の周囲を水色が覆うとは限らず、水色の縁に山吹が食み出しもしているのである。すなわち、塗る、塗られるの一方的な関係、あるいは静的な状態ではなく、常にその関係が反転する可能性がある、動的な状態が表現されているのである。《自由(隔絶)》において、縁が制約を表わし、その存在によって自由が感覚されたように、ある概念の感覚には反対概念の存在が必要なのだ。「わかりあう」感覚を味わうためには、「わかりあえない」感覚が必要であり、その逆もまた真である。色面と縁あるいは図と地とが鬩ぎ合う画面は、存在を巡る思索の場であった。