可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内藤礼個展『生まれておいで 生きておいで』

展覧会『内藤礼「生まれておいで 生きておいで」』を鑑賞しての備忘録
銀座メゾンエルメス フォーラムにて、2024年9月7日~2015年1月13日。

ガラスブロックで覆われた空間に、絵画、人形、鏡、布などを幽けく配した、内藤礼の個展。

吹き抜けの会場の西側・北側は半透明のガラスブロックで覆われ、周囲のビル群はイメージを結ばずに光だけが射し込む。その光を受ける白い壁面に草地や青空と思しき景観がアクリル絵具で淡く繊細なタッチで筆数を抑え半ば抽象的に描かれ、キャンヴァスのまま(支持体に張ることなく)貼られている(《color beginning/breath》シリーズ)。壁面に届くのはビル群を抜けてきた光であるが、映し出されるのは周囲にはない自然の風景である。もっとも、そのイメージは、作家がかつてどこかで作家の目に映り込んだイメージを再現したものである。言わば作家は鏡であり、半透明のガラスブロックに擬えられるフィルターであり、世界の有り様を時空を超えて濾過して提示していることが分かる。
作家が鏡となって世界を映し出す意図を明確にするのが《世界に秘密を送り返す》と題された、壁と向かい側の壁、床と天井に鏡が向かい合うように設置された鏡、合わせ鏡である。それは無限のメタファーであり、連綿と続く生命のアナロジーでもある。《世界に秘密を送り返す》とファッション誌の写真とが組み合わせて掲げられているのは、ファッションが「徹底した深みの不在」であり「深みの拒否としての表面である」からであろう(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.36参照)。

 ファッションは、現在のものを過去のものたらしめる。ファッションは、新しさを生み出すことで、何かに終焉をもたらす。流行は過去からきっぱり区別される分水嶺に立ち、生き生きとした強烈な現在性の感覚を与える。しかし、つい先ほどまで流行していたものがまたたくまに古びたものへと追い落とされ、みるみる輝きを失う。人びとはこの新旧の交代を目の当たりにして、そこに生と死の素早い交代を感じる。ファッションは死と終末を予感させる。ファッションはあまりに軽薄なやり方で重厚な生の事実を示す(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.37)。

現在そのものであるファッションは鏡である。それは逆説的に過去を映し出す。のみならず、ファッションがリヴァイヴァルされることは珍しくない。すなわち、常に現在を映し出す合わせ鏡と言えまいか。
鏡は対で設置されている。対のイメージは、会場で最初に目に入ってくる、天井から吊された2つの白い風船《Two Lives》により示される。それは鏡像の暗喩であり、デジタルツインならぬイマジナリーツインを想起させる。想像上の片破れ。それは、会場に置かれた小さな木製の人形《ひと》となって姿を現わす。《ひと》が眼差すのはミクロな世界であり、遠くの世界であり、あるいは見えない世界である。《ひと》をアヴァターとして、鑑賞者は時空を超えて世界を眼差す術を手に入れる可能性を手にする。《ひと》とともに設置された《人生の可能態》がその証左である。
会場は階上へと続く。そこでは階下と同様の作品に出遭う。リフレインは再生のメタファーである。あるいは双子の、また鏡像の。鑑賞者は合わせ鏡に映る「わたし」であり、過去に生まれ、生きてきた「わたし」でもある。そして、これから生じる「わたし」に「生まれておいで 生きておいで」と呼びかけることになる。