映画『ロボット・ドリームズ』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のスペイン・フランス合作のアニメーション映画。
102分。
監督・脚本は、パブロ・ベルヘル(Pablo Berger)。
原作は、サラ・バロン(Sara Varon)の漫画"Robot Dreams"。
アニメーション監督は、ブノワ・フルーモン(Benoît Féroumont)。
編集は、フェルナンド・フランコ(Fernando Franco)。
音楽は、アルフォンソ・デ・ビラジョンガ(Alfonso de Vilallonga)。
原題は、"Robot Dreams"。
1984年。マンハッタン島のイーストヴィレッジにあるアパルトマンの1室。暗い部屋でカウチに坐るドッグがコントローラを両手に持ち、ボールを打ち合うヴィデオゲームを一人二役で遊んでいる。ゲームが終わる。背伸びをし、欠伸をしたドッグは、冷凍食品を電子レンジで温める。食事を手にカウチに戻ると、電源を切ったテレビ画面に自らの姿が映った。ドッグはリモコンを取り出し、テレビのスイッチを入れる。音楽番組、コメディ番組、通販番組。チャンネルを変えるが興味を惹く番組はない。ふと向かいのアパルトマンの部屋が目に入った。カウがディアーに寄り添い、幸せそうに過ごしている。温かい後景にしばし目を奪われた。テレビ画面に目を戻すと「一人で寂しい?」と映し出されていた。「AMICA2000」というロボットのCMで、ご注文をと電話番号が表示されている。ドッグはすぐに電話してベッドに入った。
ドッグは窓から通りを眺め、運送業者がやって来るのを待ち構えていた。1台の配送車が目の前に停まる。配達員のバッファローが段ボール箱を抱えてやって来た。サインをして箱を受け取るが、途轍もなく重く倒れてしまう。すぐに開梱し、説明書を見ながらロボットの組立を始める。窓辺にはピジョンがやって来てドッグの様子を興味深そうに眺める。胴体に腕と脚の接続が完了。見物のピジョンの数はいつの間にか増えていた。頭を取り出し、胴体に取り付ける。反応がない。頭を捻ると、ランプが点灯し作動音がした。手が動き、胴体が起き上がる。ピジョンたちは驚き飛び去った。ロボットの頭部と胴体が回転し、にんまりと笑う。ドッグが飲んでいた飲み物を差し出すと、ロボットは腕を伸ばして飲んだ。
ドッグがロボットとともに通りを歩く。エレフェントの子が手を振っている。ロボットが手を振り返す。コインランドリー、床屋、ケーキ屋。ロボットが屯していたパンクに手を振ると、中指を立てられた。ロボットも中指を立てる。ドッグが慌てて1番街駅へロボットを引っ張っていく。改札機にトークンを入れる。ドッグが通るように促すがロボットは立ち止ったまま。改札機を誰かが飛び越えて行くのを見たロボットは真似して飛び越えた。ホームに降りると、向かい側でオクトパスが並べたバケツをスティックで打ち鳴らしていた。演奏が終わると丁度地下鉄が滑り込んで来た。車内ではロボットが興味深そうに周囲を見渡す。お喋りに興じたり、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、新聞を読んだり、新聞を盗み見したり、眠ったり。ロボットは手摺と間違われてモールに腕を摑まれていた。
セントラルパーク。ロボットは先生に引率された小学生が手を繋いで歩いているのを目にしてドッグの手を握る。ところが力加減を間違えて強く握りすぎてしまい、ドッグは思わず悲鳴を上げる。ロボットは手を離す。再び歩き始めたドッグはロボットの手を優しく握る。
ローラースケートを履いたドッグがアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「セプテンバー」に合せて踊り出す。ロボットがドッグの動きを忠実に真似る。二人の息の合ったダンスに人集りができた。
1984年。マンハッタンのイーストヴィレッジで一人暮らしのドッグは、向かいの部屋のカップルの仲睦まじい姿を見て孤独を痛感し、衝動的にテレビCMで見た友達ロボット「AMICA2000」を注文する。ドッグは組み立てに成功し、愛嬌あるロボットが作動する。ドッグはロボットとともにセントラルパークに出かけ、ローラースケートやボートに興じた。以後、トップ・オブ・ザ・ロックでマンハッタンを眺めたり、、家でテレビゲームをしたり映画を見たりと、ドッグはロボットと瞬く間に絆を深めていった。コニーアイランドへ繰り出した2人は海水浴を満喫するが、ビーチでの日光浴から目覚めたドッグはロボットが塩水で錆びて動かなくなっていることに気付く。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
一見するとユルいアニメーションだが、身につまされる作品である。
孤独な生活を送っていたドッグは、友達ロボットを手に入れ、楽しみを分かち合う喜びを味わう。ドッグがセントラルパークでローラースケートを履いてEarth, Wind & Fireの"September"に合せて踊ると、ロボットは同期して動き出す。2人の気持ちが1つであることが表現される。そのまま音楽に載せてロボットの存在により輝き出したドッグの日々が描かれていく。"September"は2人の絆の象徴となる。
映画はブルックリン橋越しのマンハッタンの夜景で始まる。ツインタワーが聳える。物語の舞台である1980年代とは時間の開きがあるが、後にツインタワーが倒壊してしまうことは周知の事実である。ツインタワーはドッグとロボットの2人のメタファーであり、その倒壊はという運命は、2人の関係が失われてしまうことを暗示する。
交際していた2人がやむを得ない事情により生活の舞台を違えてしまうと、それぞれが新たな人間関係を築くことによって、心理的な距離も広がってしまう。ドッグとロボットもアクシデントをきっかけに切り離されてしまうが、2人の絆が失われていないこことは"September"を聞いた2人の反応で明らかになる。
ドッグとロボットがコニーアイランドに向かうバスで、ロボットは、乗用車に乗る別のロボットが子供に手荒く扱われているのを目撃する。ドッグのもとに届けられたロボットは幸運であった。
1984年のマンハッタンを舞台にしながら、そこで生活するのは人間ではなく動物に置き換えられている。科白はない。思わず漏らす声を別にすれば、表情や動作(ドッグの場合、喜ぶときには尻尾が激しく動く)により気持ちが表現される。キャラクターの名前さえもない。擬人化された動物たちに大人、子供、男性、女性の区別はあるが、ロボットに性別はない。ドッグとロボットとの絆が異性愛か同性愛かは区別する必要がない。
ドッグとロボットは一緒に『オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)』のヴィデオを見る。ブリキの木こりには心がないが、ロボットに心はある。
題名の"Robot Dreams"は、文字通りロボットが見る夢に基づく。映画『ブレードランナー(Blade Runner)』(1982)の原作小説の題名『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』が想起される。
夢は、現実に対する他なる可能性である。以下の引用の「小説」を「映画」に置き換えて読めば、寓話的な本作がいかにリアリズムの映画であるかの説明になろう。
現実の人生の展開が偶有性の様相を帯びているということは、他のありえた可能性が、見てきたように、「抑圧されたものの回帰」の形式で現実にたち現われ、幽霊のようにとり憑くことである。このとき、同時に、次のような逆転が生ずるのではないか。この偶然の現実が、他なる可能性の否定を前提にしてこそ成り立っているのだとすれば、後者の現実化していなかった可能性の方がより本来的であり、現実よりもいっそう、私にとって真実だということになる。(略)
ここで、まことに正確に、ヘーゲルの弁証法でいうところの「否定の否定の論理が作用している。「否定の否定」とは、否定されていることが、実際には、もとの「肯定されているもの」よりもいっそう徹底期に肯定されているという意味である。現実の人生の物語がたち現れる上で否定された可能性の方が、現実よりも深い真実を含んでいるように感じられるとき、まさに「否定の否定」の論理が働いている。
そして、この論理こそが、小説における「虚構性の勃興」を説明するのである。現実が偶然性を帯びているとき、その現実をまさに偶然性として際立たせる上で背景になっている、現実化しなかった可能性がある。こちらの可能性にこそ真実を見出し、これをプロットの軸に据えたとき、小説は、現実から切り離された虚構性そのものの中に真実を見出すのだ。そのプロットは、虚構であるがゆえにますます真実であり、これを採用している小説は、現実を単純に模写する小説よりもなおいっそうリアリズムに深く傾倒していることになる。(大澤真幸『世界史の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021/p.540-541)
本作ではEarth, Wind & Fireの"September"が極めて効果的に用いられている。映画『最強のふたり(Intouchables)』(2011)の冒頭で流される"September"もまた極めて印象的である。