映画『本心』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の日本映画。
122分。
監督・脚本は、石井裕也。
原作は、平野啓一郎の小説『本心』。
撮影監督は、浜田毅。
撮影は、江崎朋生。
照明は、三善章誉。
録音は、清水雄一郎。
美術は、高橋努。
装飾は、谷田祥紀。
スタイリストは、前田勇弥。
ヘアメイクは、宮本奈々。
音響効果は、中村佳央。
編集は、普嶋信一とシルビー・ラジェ。
音楽は、パク・イニョンと河野丈洋。
高校の制服を着た石川朔也(池松壮亮)が廊下を歩いている。教室に目を遣ると、たった1人で坐る村田由紀(宮下咲)の姿があった。カーテンが風に翻り、虫の声が響く。朔也は教室の外からじっと由紀を見詰める。振り返った由紀と朔也は一瞬目が合う。次の瞬間、由紀の姿は教室から消えていた。
朔也が目を覚ます。射し込む朝日に手を翳す。
作業着に着替えた朔也が部屋を出ると、台所で母・石川秋子(田中裕子)が弁当を用意していた。誰の弁当を作ってるの? あなたのよ。冗談はやめてくれよ。行ってくる。えっ?
郊外に立つ県営住宅。朔也が空地を抜けて川沿いの道を行く。大型トラックの行き交う産業道路を渡り、工場へ向かう。
溶接作業を一段落支えた朔也が、溶接面を外し、汗を拭う。持ち場を離れると、幼馴染みで同僚の岸谷(水上恒司)が溶接ロボットの作業を見ていた。俺たち、直に要らなくなるな。岸谷が半笑いで朔也に溢す。朔也の電話が鳴った。母親からだった。
暗い工場を出て陽差しの降り注ぐ外で電話を受ける。ごめんね、お弁当必要なのは高校の時だったのにね。お昼はちゃんと食べたの? ああ、適当に。もう十分かなと思ってるの。帰ったら少し話したいんだけど、いい? 今日は予定があるから。雨が降っているから気を付けて帰るのよ。
朔也は岸谷と仕事帰りに飲みに行った。うちの母さん最近ちょっと変なんだよ。朔也が岸谷に愚痴る。
朔也が電車に揺られていると、激しい雨が窓を叩き付けた。
居間の窓の前に坐った秋子が激しく降る雨を見詰めていた。秋子は豪雨の中、傘を差して出て行く。
家の傍の川沿いの道を歩いていた朔也は、向こう岸で傘を差しカンテラを提げた母親が増水した川へ降りていくのを認めた。お母さんっ! 朔也は慌てて駆け出し、橋を渡って向かいに廻ろうとするが、猛スピードで走ってきたトラックに遮られる。母親の姿は消え、傘が濁流に流されていた。朔也は川へ飛び込む。
包帯に巻かれ、多数のコードに繋がれた朔也がベッドに横たわっている。いつしか紅葉の季節となった。雪が降り、桜が咲く。朔也がようやく目を覚まし、明るい陽差しに手を翳した。身体に取り付けられていたコードを取り外す。入院から1年近くが経っていた。
車椅子に乗れるようにまで恢復した朔也は刑事からの事情聴取を受けた。ご遺体の損傷は激しいですがお母様に間違いないですか? 写真を示された朔也は母親だと確認する。お母様は自由死の認可を受けていましたよね? 朔也には初耳だった。
2024年8月。溶接工の石川朔也(池松壮亮)は、県営住宅で同居する母・石川秋子(田中裕子)から、帰ったら話したいことがあると電話を受けた。最近行動に妙なところがあると気になってはいたが、幼馴染みで同僚の岸谷(水上恒司)と飲む約束を優先してしまう。飲んだ帰り、ゲリラ豪雨で増水した自宅付近の川に母親が自ら近付いて流されるのを目撃した朔也は衝動的に川へ飛び込む。1年ほど経過してようやく朔也は意識を恢復した。警察の事情聴取で母親が相続人の相続税や居住権で優遇措置が受けられる自由死の認可を受けていたことを知る。工場のオートメーション化により雇い止めとなった岸谷は依頼主に成り代わって雑用を遂行するリアル・アバターに転職しており、朔也を紹介料を手に入れようと朔也を引き込んだ。リアル・アバターとなって1年。朔也は臨終の病床にある若松(田中泯)の耳目となり、禅寺へ立ち寄り、海へ向かった。若松が自由死を決行するのを知った朔也は止めようとするが、叶わなかった。岸谷は朔也を元気づけるのと紹介料目的とで、高校の同級生だった村田由紀(宮下咲)を仮想空間にAIで再現するよう、朔也をヴァーチャル・フィギュア社のCEO野崎将人(妻夫木聡)の元に連れて行く。マウントディスプレイを装着してスタッフの中尾(綾野剛)から説明を受けると、実は中尾は既にこの世を去っている人物であることが明かされた。ヴァーチャル・フィギュアの再現性に舌を巻いた朔也は、死の直前に自分に何を告げようとしていたのかを知ろうと母親の再現を野崎に求めた。野崎は情報が多いほど再現の精度が上がると、母親と親しかった三好彩花(三吉彩花)から母親の情報提供を受けるよう勧められる。何という偶然か、彩花は由紀に瓜二つだった。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
冒頭のセピアで描かれるシーンは石川朔也の夢である。朔也は高校時代に村田由紀に恋心を抱いていた。由紀は売春を働いていたことが発覚し、自殺してしまう。朔也は由紀を侮辱した教師を暴行し、退学となった。夢は朔也が過去に縛られていることを示すものである。目覚めた朔也が腕を朝陽に翳すのは、自らの汚れた手の再確認に他ならない。朔也の幼馴染みである岸谷はヴァーチャルフィギュア(ヘッドマウントディスプレイ越しに対話可能な生成AI技術に基づくデジタル人間)により由紀を復活させるよう唆すが、夢という非現実のイメージにより朔也の現実は影響を受けており、朔也の日常に由紀は既に存在してしまっていると言える。翻って、岸谷は朔也の過去の桎梏を象徴する、言わばリアルなデジタル・タトゥーとして機能する。仮想と現実とは別個のものではなく、両者が組み合わさって世界を成り立たせている。それは新たな現実などではない。これまでもずっと夢という非現実、過去という非現実が、現実を、そして未来を規定して来たのだ。発達したテクノロジーによって、非現実の有り様が変化したに過ぎない。
朔也の母・秋子は、相続税の支払いや居住権の継承に関して相続人が優遇措置を受けられる自由死の認可を受けていたことを警察官から知らされる。増水した川に自ら近付いたのは刑事の見立て通り自殺であったのか。朔也は母が亡くなる直前、もう十分かなと思っていると吐露したことが、自分との人生に見切りを付けたのだろうか、自分との生活は幸せではなかったのだろうかと、母親の本心を確認したい衝動に駆られた。朔也が母親のヴァーチャルフィギュアを作成する動機である。
もう十分かなという母の言葉は、過去に縛られて生きることであったのではなかろうか。母の亡くなった晩、朔也を叩き付けた豪雨、そして母や自らを呑み込んだ川は、朔也を叩き付け押し流すとともに、過去を洗い流すものでもありえた。
朔也は、母親が支度していた村田由紀と瓜二つの三好彩花に出遭う(因みに三好彩花を三吉彩花が演じるに当たり役名を変更しなかったのは、ヴァーチャルとリアルとの境目を作品内のみならず、映画と現実との入れ籠で曖昧にするためであろう)。由紀への執着は、朔也が過去に縛られていることの証と言える。
彩花はかつて売春で生計を立てていた。彼女の黒ずくめの衣装は、自らの黒歴史に縛られていることを表現している。また、黒い衣装は、彼女がアヴァターとして用いる黒猫の表象でもある。黒猫は魔女――男性社会の規範にそぐわない女性であり、ゆえに性的放縦さとも結び付けられる――の使い魔であるがゆえに、彩花は黒猫に自らを重ねるのである。
朔也は颱風に被災した彩花を母の部屋に住まわせる。彩花は売春相手からの暴力がトラウマとなり、他人に触れることができなくなっていた。同居により朔也と彩花は距離を縮めるが、決して触れ合うことは無かった。とりわけ象徴的なのは、レストランでピアノの生演奏に合せて2人が踊るシーンであり、朔也は大切な彩花に決して触れようとはしないのである。ところが彩花はアヴァターのデザイナーであるイフィー(仲野太賀)と手を触れているのを目撃し、朔也は彩花に裏切られたとの思いを抱く。だが彩花は朔也との生活で、男性に対する恐怖心が和らげられていたのであった。彩花のシャワーシーンは、過去を洗い流し、黒歴史への囚われから抜け出すことを示す。朔也もまたそんな彩花に感化されることになる。
朔也と彩花がイフィーと出遭うきっかけは、朔也がコインランドリーで店長から差別的な言動を浴びせる外国人店員を救い出したことだった。激昂した朔也は店長の首を絞めていたが、拡散した動画では暴力シーンはカットされていた。朔也は暴力を振ってしまったことで自らの手が汚れていることを再認識する。
朔也は母親が自らに見切りを付けて亡くなったものと考えた。それは朔也が犯した過ちに縛られているためであった。母親がもう十分かなと言っていたのは、過去に苛まれることそのものであった。朔也はヴァーチャルフィギュアとしての母が象徴する過去との接触を断つことで、未来へと歩を進めることになる。そのとき朔也の手は汚れた手ではなくなる。彩花もまた朔也との新たな関係に踏み出すことが可能になる。青空に伸ばされた腕と、それに触れる手。冒頭の触れられないセピアの夢=過去から、ラストシーンの感触を確かめられるような青空=未来へ。