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芸術鑑賞の備忘録

本 森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』

森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社新書1310/光文社/2024年)を読了しての備忘録

目次
はじめに――なぜ、「生き延びる」なのか
第1話 生き延びるのはだれか
第2話 「私」が生き延びるということ・その1――フラシスコ・デ・ゴヤのばあい
第3話 「私」が生き延びるということ・その2――ディエゴ・ベラスケスのばあい
第4話 華氏451の芸術論――忘却とともに生き延びる
第5話 コロナと芸術――パンデミックを生き延びる
第6話 生き延びるために芸術は必要か――作品、商品、エンタメ、芸能、そして『名人伝
第7話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その1――夏目漱石と『坂の上の雲』から明治を読み解く
第8話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その2――青木繁坂本繁二郎が残したもの
おわりに――生き延びることは勇ましくない
あとがき

空き家となった実家(老朽化した店舗兼住居)をどうするかという作者自身の抱える悩みを切り口に「生き延びる」とは何かについて煩悶する作家のノートである。
第1話「生き延びるのはだれか」では、「xが生き延びる」として、主語を変数という言わば「空き家」にしてみせる。そこに入居するのはマクロには人間であり、ミクロには私である。そこから映画『ブレードランナー(Blade Runner)』(1982)などSF映画を引き合いに、生き延びるのは人間だけではないと、xにAIを代入してみせる。ヒューマニズムに対する批判的な視座を持たなければ、地球は人類にとって「空き家」となってしまうだろうと警戒するのである。

 人工知能(AI)の是非を論じたいわけではありません。近い将来、人工知能が人間にとってかわるだろうという、SF話に終始したいのでもありません。そうではなく、主語の座にすえる不動の主役として、私たちが「私たち人間」に固執しているかぎり、眼前にひろがるのはあいもかわらず、ここ数百年来、かわることのなかった人間中心主義的な風景以上のものではないのだと、そのようにいいたいだけなのです。
 もちろん戦争や災害や差別や弾圧、そうしたくりかえされる人間の悲劇をまのあたりにすると、「人間が生き延びるために、私たちはなにをすべきか」という問いがもつ切迫感につよくさいなまれます。しかしそうした人間の、ある意味愚行の歴史をかえりみる方法としても、「私たち人間」という唯一無二であるかに思える主語(主役)と一度訣別してみるべきだと提案したいだけなのです。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.55-56)

第2話・第3話「『私』が生き延びるということ」では、いずれもプラド美術館所蔵の、フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《カルロス4世の家族(La familia de Carlos IV)》(1800)と、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の《ラス・メニーナス(Las Meninas)》を題材に、「私」が生き延びることについて考察する。カルロス4世に仕えるゴヤは《カルロス4世の家族》において、国王夫妻の関係を暗示し、実力者である王妃マリア・ルイーサの顔を美化することなく辛辣に描き出す。それでも愛人ゴドイとの間に生まれた王子と王女とを気品高く描くことで勘気に触れることを免れ、画家も作品も生き延びた。ベラスケスは国王フェリペ4世が執務中に王女マルガリータの姿を眺められるよう《ラス・メニーナス》を制作した。画中の奥に掛かる鏡にぼんやりと映り込む国王夫妻はやがてスペイン・ハプスブルク家が途絶える(宮殿は言わば「空き家」となる)予兆であり、ベラスケスから王家に向けた鎮魂歌とも解される。そのような解釈の余地を残したことがフェリペ4世のための極私的な絵画が今日まで生き延びる理由であったとする。

第4話『華氏451の芸術論』では生き延びるために忘却に抗うことが語られる。かつてアンナ・アフマートワ(А́нна Ахма́това)はスターリンによる大粛清の犠牲者に向けた鎮魂詩を作りながら弾圧を逃れるために書き留めず記憶した。恰もレイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)の小説『華氏451度(Fahrenheit 451)』(1953)に描かれた焚書を生き延びて人と化した書物のようである。デブラ・ディーン(Debra Dean)の小説『エルミタージュの聖母(The Madonnas of Leningrad)』(2006)では、ナチス・ドイツの侵攻に際して絵画を疎開させたエルミタージュ美術館が描かれる。「空き家」となった美術館を訪問した少年兵たちにガイドのマリーナは記憶を頼りに額縁だけになってしまった絵画を解説する。

 たとえば『聖書』。あれは実話なのか、それとも架空の物語なのか。このように問われたとしたら、みなさんはどのように答えますか。私ならつぎのように答えたい。あれは実話でも虚構でもなく、「虚=フィクショナルな想像」と「実=実話の記憶」のかなたにみいだされた「芸術」世界の表出であると。
 画家ラファエル作の『聖家族』に描かれた「3つの光輪」は、ラファエロがかつて見た記憶すなわち実話なのか、それとも画家の思い描いた想像世界でありフィクションなのかという問いについても同様のことがいえます。そもそもこの問いのたてかた自体がナンセンスです。なぜならラフェエロは画家であり、「虚=架空の話」か「実=実際にあった話」かという詮索のかなたとしての「芸術」がめざされていたはずだからです。ラファエロにとって「3つの光輪」は、虚構でも実話でもなく。芸術のなかにこそみいだされるべきであり、ラファエロはそれを絵画にあらわしたのだと答えればじゅうぶんだと私には思われます。
 ですから少年が「光輪がある」とつぶやいたとき、少年(正確にはマリーナと少年たち)は、確実の芸術表現の根幹に触れていたのです。なんというかマリーナと少年たちは、まだなにも描かれていない白いカンバス(正確には板でしょうが)に、画家ラファエロとともにむきあっている。マリーナは少年たちの想像する意志に勇気づけられ、また少年たちはマリーナの記憶を呼び起こそうとする熱いまなざしに後押しされて、マリーナと少年たちは戦時下のエルミタージュという非常事態下で(非常事態下であったからこそというべきかもしれませんんが》、芸術が生まれいずる瞬間に立ち会うことができたのです。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.125-126)

第5話「コロナと芸術」では、世界恐慌下のアメリカ合衆国で行われた芸術家支援政策や、戦時下の日本において松本竣介が発表した論考「生きている画家」を例に、芸術家と国家との関係について言及した後、コロナ禍を生き延びた芸術家としての実体験が語られる。展示作業を終えたにも拘わらず観客が入らない「空き家」となった美術館。その事態を肯定的に捉えるために、能舞台に関わった際に得た神への供物としての芸術という視座が提示される。

 「お客さまは神さまです」、あれを私はこれまで、ご来場のお客さまは神さまのように大事におもてなしすべしという、エンターテイナーのサービス精神、心得のことであると解釈しておりました。しかしそうではないのかもしれません。
 舞台をご覧になるのは〝人間さま"ではなく、本物の〝神さま"なんです。だとすれば人間のお客さまなどいてもいなくてもたいしたもんだいではない。ひとがくるのかこないのかに関係なく、舞台は粛々とつづけられなければならない。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.160)

芸術家と国家との関係については、第7話・第8話「芸術家は明治時代をいかに生き延びたか」において、国家=個人という関係(あるいはそれを自認する青年たち)が生じた明治時代を生きた青木繁坂本繁二郎という2人の対照的な画家を通じて再論される。

第6話「生き延びるために芸術は必要か」では、芸術作品と商品、芸術とエンターテインメントとの違いが論じられる。「『商品』とは、『あったらいいな』の世界である。『作品』とは、『ありえへん』の世界である。」。また、「『芸能』とは、ぜったいにウケないといけない世界である。『芸術』とは、ウケなくてもやらなければ世界である。」と指摘する。その上で中島敦の小説「名人伝」(1942)において矢を射る名人・紀昌が矢をつがえる必要をなくし、果てには弓の存在を亡失してしまったことを引き合いに、「『芸術』は必要か否か」とか、『芸術とはなにか』というような問いに頭を悩ませているようでは、どうも芸術の名人にはほどとおいのではと感ぜずにはおれません」と自嘲してみせる。だがそれは第4話で明らかにされた通り忘却に抗うことを使命とする作家の自負でもある。

 あえていうなら、難問は〝解く"べきものでも、〝説く"べきものでもない。おのずと〝溶けていく"ものである。溶けてしまえば、答えをもとめて悩むこともなくなる。そうなれば作品をつくったり、本書を書いたりする必要もなくなるのだろう。しかしなかなかそのようにはなりませんから、しばらくはつくったり、書いたりしつづけることになりそうです。ここはあわてず気長に〝溶けていく"のを待つほかないようですね。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.190)

「〝溶けていく"のを待つほかない」と言う作家を名人と見ないわけにはいかない。実際、作家は懸案の実家の空き家問題を、透明な囲いで覆って「〝溶けていく"のを待つほかない」という解決策《持続不可能性建築案》に昇華させてみせる。無論、「空き家」とは作家自身のことである。

 ところが私のばあい、このアイデンティティ感覚がどうも欠如しているようなのだ。「自分はかくかくしかじかの者である」と胸をはって主張できる「私」がみあたらない。私ならではの「私」というものがどこかに旅立ったまま、私の中身が空き家状態になっている。
 「このアイデンティティの空白」が、私に作品制作をうながすきっかけとなる。なにものかに扮した自分自身を写真撮影するというセルフポートレート作品を何十年とつづけてきたのも、結局のところからっぽの容器としての「私」の、そのからっぽをひたすらなにかでみたそうとする、そんな渇望の集積であった。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.269-270)

作家は坂本繁二郎の《能面》(久留米市美術館所蔵)において、4枚の能面が時計周りに次第に置いていくように配されていることに着目した(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』(光文社〔光文社新書〕/2024/p.260-261参照)。建物が朽ち果てるように人は老いる。
ところで、「xの役に立つ。」という文の主語xに資本主義が代入されたとき、老いた者はどうなるだろう。
誰もがそれぞれの記憶を持つ。人とは本に擬えられる。ならば焚書とは、人間を抹殺することなのだ。だから作家は「焚書」が決して起こらないよう忘却を警戒するのである。
老いを老いのままに受け容れることは容易ではない。簡単に解ける問題ではない。少なくとも「〝溶けていく"のを待つほかない」という視座の導入は、(映画『PLAN 75』(2022)などが描き出す)来たるべき「焚書」の時代に抗う名人の知恵である。

本書のカバー写真は《青春の自画像〈松本竣介/わたしはどこに立っている2〉》である。松本竣介の絵画《立てる像》(1942)の背景を描いた画布が画架に掛けられたアトリエの写真である。肝心の人物は描かれず、衣服だけが画面に掛けられている。主人を欠いた空き家。作家は松本竣介に成り代わって芸術の普遍妥当性に思いを巡らし、さらに鑑賞者にも同じように松本竣介の、そして森村泰昌の、芸術家の立場に立つよう促す。なおかつ、主役を欠いた場面は、「xが生き延びる」のxから人間(主体)を取り除いた、ヒューマニズム批判という、より遠大な射程を有している。名人は溶けてなお、読者を射抜くのである。