展覧会『大西麻貴+百田有希 o+h展「生きた全体――A Living Whole」』を鑑賞しての備忘録
TOTOギャラリー・間にて、2024年9月4日~11月24日。
建築とは、建築物が内包する空間と建築物を取り囲む環境とが分かち難く結び付いた関係性のことであり、建築をつくることは設計から施工はもとより引き渡し後に場を育てる行為までをも含み込む。ゆえに、建築とは生きること全てである。そのような思想に基づいて活動する建築ユニット「大西麻貴+百田有希 o+h」を紹介する企画。高さを抑えた展示題に設置された建築模型によりマクロ視点で作品を俯瞰する第1会場「コンセプトの庭」から、模型に加え、写真、映像、図面、建築素材、書籍など多様な作品を屈曲する通り庭を抜けながらミクロ視点で眺める第2会場「o+hの頭の中へ」へと連なる2部で構成。
作家は建築を個々の建築物と捉えるのではなく、建築物が包み込む内側空間と建築物の外側に拡がる環境とを連続的に捉えようとする(「空間的全体」)。その連続性は道により具現化される。京都の古地図のイメージが例示され、個々の家から路地、大路小路、御土居から街道筋へ。道により住居が都市や遠隔地へと連なる。作例として、螺旋構造で住空間を繋いだ住居《二重螺旋の家》が取り上げられる。
道を通ることで知覚される体験は、同じ道を歩く他者と共有可能である。例えば巡礼は個人で行われたとしても、言わば他者の経験を追体験する機会である。道を建築に引き込むことは建築を集合的な記憶によって町へと開く可能性を生じる。3方を道に囲まれた家に4本目の道を通した住居《house h》、40mの距離を隔てて相補的な建築としたインキュベーション施設《Toberu》などが作例である。
道は空間的に連続するのみならず、時間的な連続を象徴することにもなる(「時間的全体」)。マルセル・プルースト(Marcel Proust)『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』における茶に浸したマドレーヌについての著名な条が援用される。
そして、叔母が私にくれた菩提樹のハーブティーに浸したマドレーヌのひと切れの味を私が認めるや否や(その思い出がなぜ私をあれほど幸福にしたか、そのときの私にはまだわからなかったので、その解明はもっとあとまで待たなければならなかった)、すぐに、叔母の部屋のある、道路に面した古い灰色の家が、私の両親のために庭に面して建てられた母屋の裏の小さな離れ(私がそれまで思い出していたのは、他と切り離されたこの一角だけだった)と、芝居の書き割りのようにつながった。家とともに町が(朝から晩まで、さまざまな天候のときの姿のまま)、昼食前によく行かされた中央広場が、買い物をしに行った通りが、天気がよいときにたどった道が現われた。日本人がよくする遊び――陶磁器のお椀に水を満たし、そこに、小さな紙片をいくつか浸して遊ぶのだが、水に沈めたと思うと、紙片はたちまち伸び広がり、ねじれて、色がつき、互いに異なって、誰かが見てもわかるしっかりしたかたちの花や家や人物になる、そんな遊びと同じように、いま、私たちの家やスワンの家の庭に咲くあらゆる花が、ヴィヴォンヌ川の睡蓮が、善良な村人たちが、彼らの小さな住まいが、教会が、コンブレー全体とその周辺が――そうしたすべてが形をなし、鞏固なものとなって、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。(マルセル・プルースト〔高遠弘美〕『失われた時を求めて 1 第1篇「スワン家のほうへ 1」』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2010/p.121-122)
作家は空間的、時間的のみならず、「生きた全体」として捉えようと試みる。例えば、竪穴式住居は毛むくじゃらの動物が蹲っているようであるし、藁葺き屋根の民家は道の片隅で蓑を着た旅人が一休みしているようではないか。ならば撫でてみたくなるような体温を感じる建築はあり得るのではないかと。そのためにザラザラと滑らかなものとが隣り合う官能性が追究される。《都市の中のけもの、屋根、山脈》や《夢の中の洞窟》といった仮設の建築的装置がその作例である。鍾乳洞的な構造を身体と擬える胎内巡り的建築としてニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle)の《Hon/Elle》に通じよう。
建築を全体として捉えるためには、単位とリズムとに着目し、意味や個性を把握し、複眼的に対象を把握することが必要であると訴える。単位やリズムはまとまりという意味を生じさせ、部分と全体とはミクロとマクロという2つの観点を生じさせる。
高さを抑えた台に設置された建築模型を俯瞰する第1会場から、展示台により連続性を持たせた屋外の中庭を経て、さらに階上の脳内というよりはむしろ作品が育まれる子宮へと至る産道のような第2会場(やはり《Hon/Elle》的だ)へと、2つの異なる視点の世界を辿らせることで、「生きた全体」という思想を体感させることが目論まれている。
大西麻貴+百田有希 o+hの建築は、時間(Hours)や人(Humans)を結合させるヒドロキシ基(-OH)のようである。