可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 百頭たけし・本多周二人展『幽界通信』

展覧会『百頭たけし・本多周二人展「幽界通信」』を鑑賞しての備忘録
CASHIにて、2024年11月1日~22日。

幽明の境をテーマに、百頭たけしが撮影した塵芥や廃材のある風景と、本多周が描き出した妖気を感じる日常的な景観とを展観。

百頭たけしは、いずれも無題で同サイズ(297mm×420mm)の額装した写真10点を出展している。
鉄屑の山のある倉庫に新たに廃品を持ち込む人と受け容れる人物とを見下ろすロナルド・マクロナルド(「ドナルド」)の等身大(?)の人形。所々死んだ魚が浮いているパンに埋め尽くされた水面、屋根の上に並べられたオートバイと巨大な猫の置物、ゴミが散乱する郊外にぽつんと立つ樹木と彼方のタワー、建設用仮囲いの前に打ち棄てられた棚や自転車と虎の置物、柵の前後に並ぶ制作途上のものも含む仏像群、投棄された廃棄物の山だけを煌々と照らし出す1本の街灯、駐車場の柱に描かれた着彩の山水図、木彫の布袋と工具などが並ぶ大木の脇に立つ工房の裏手、裏庭のような場所に2本の枝で支えられた買い物籠。
廃棄物あるいは打ち棄てられたものが主要なモティーフとなっている。それとともに登場するのが魚の死骸、動物の置物、キャラクターの人形、仏像といったいずれも眼を持つ存在である。眼を持つ存在がいない場合、光を送る――すなわち視線を送る――車のライト、街灯のライト、さらには展望台として機能しうる樹木や塔が代替する。2本の枝を支えにして持ち上げられた買い物籠――得体の知れないオブジェ――など、まさに籠「目」という複数の眼が存在する塔である。そして、2本の脚を得た付喪神でもある。眼は眼差しであり、主体のメタファーである。カメラを向ける作家――眼差しそのものに特化した存在――は視線を注ぐとともに、見詰め返されている。それらの眼差しにより人は知らず知らずに影響を受けているのである。打ち棄てられた存在、死した存在、すなわち過去が現実を構成するのだ。その象徴が付喪神となった買い物籠であり、スクラップ工場に君臨する冥界の王「ドナルド」なのだ。

本多周は身近な景観を写実的に描き出す。
《正午》(1455mm×1120mm)は民家の敷地を囲う白い壁に映る植木の蔭が主題である。壁や地面の罅まで丁寧に表わされている。《禁足地》(1455mm×970mm)には用水路脇の小径の鬱蒼とした茂みの手前にブルーシートが被せられ、そこに足を踏み入れないように設置された紅白のカラーコーンとコーンバーが描かれている。《正午》の壁と《禁足地》のカラーコーンとコーンバーとは、いずれも境界を表の主題としつつ、他方で、《正午》では照りつける陽差しを影により、《禁足地》では隠すために目立たせるブルーシートとカラーコーン(及びコーンバー)により、反転を裏の主題としている。反転は鏡(鏡映反転)のメタファーである。
《あの狸の置物は夜に動く》(727mm×500mm)は成長した植物でほとんど見えなくなってしまった信楽の狸をモティーフとする。タヌキという生き物を焼き物(人工物)で象る。信楽の狸(人工物)が植物(生き物)によって覆われ一体化していく。自然と人工という境界を往き来する。それらを等しく照らすのが葉叢の奥に覗く満月である。満月は太陽の光を跳ね返す鏡である。
《眼光》(1620mm×970mm)には松を描いた襖の前に置かれた鏡台が描かれている。やや後ろに倒された鏡には障子の上部、壁のエアコン、板張りの天井が映り込む。鏡は世界を映す眼であり、絵画のメタファーである。襖とともに画中画を構成するとともに、襖とは異なり角度を付けてイメージが移ろうことができることが示唆される。また、鏡の上に巻き上げられた布(カヴァー)はシャッターのメタファーでもある。鏡(台)はカメラ(写真機)であり、眼差し(眼光)である。
すなわち本多周の描いていたのは鏡であった。対象からの光を受けて反射する、その刹那に着目すれば――認識は不可能なので想像力が要求されるが――、映し出されるのは常に過去である。もとより、絵画もまた過去の眼差しに他ならない。

百頭たけしと狸を描く本多周とは、過去を表わす助動詞「た」を抜いたり(「『た』抜き」=狸)、消したり(「『た』消し」=たけし)してはならないと、鏡(≒カメラ)の反転像で訴えるのだ。