展覧会『井本真紀展「白の位相 Before the emptiness」』を鑑賞しての備忘録
hide galleryにて、2024年11月2日~24日。
石膏の型枠にガラス粉末を詰めて焼成したガラス器を中心とする、井本真紀の個展。
(略)そもそも、フラジャイルって「壊す」という意味のラテン語に由来しているんですよ。安定していたものを壊す。(荒俣宏・高山宏「対談 雑に密かに――編集工学のアルファとオメガ」『ユリイカ』第56巻13号〔2024年11月号〕p.60〔荒俣宏発言〕)
《Layers-L》は、欠けていて不揃いの長方形の板を重ねた構造のガラス器。不透明の灰白色であるため、陶器に見紛う。型枠を制作する際、台に置くためだろう、板は1つの面ではほぼ揃っているが、その他の面では揃っていない。揃った面を背に、ちょうど音の波形のように小刻みにジグザグした形を晒している。抽象的な造型であるため、形状は異なるものの八木一夫の《ザムザ氏の散歩》を介してフランツ・カフカ(Franz Kafka)の『変身(Die Verwandlung)』を連想させ、毛虫が這う姿にも、あるいは飛び出した2本の板で支えられて立つために毛むくじゃらの獣にも変身して見える。所々にある罅割れた隙間から内部の空洞が覗く。内部と外部とは厳密に仕切られてはいない。むしろ、完全に遮断してはならないのかもしれない。なぜならこの箱ないし器は人であり生命そのものであって、環境とエネルギーや物質を不断にやり取りすることができなければ生きられないからである。作家は制作を「わたしと素材とのあいだに結ばれ続ける、為すことも成ることも抱えた、動的な関係の在りよう」と捉えているが、その発想は動的平衡(dynamic equilibrium)にある生命現象に通じるものと言えよう。
生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社〔講談社現代新書〕/2007/p.284)
さらに1つ1つの板を3次元の空間として時間軸に沿って並べたものとも解し得る。1枚1枚の板が異なっているのは、日々同じ事を繰り返すようでいて実は異なっていることを示す。時間は変化であり生命である。《Layers-L》の"L"は"Life"であった。
《Layered》は、不透明の灰白色の正方形の板を積み重ねたガラス器。1枚1枚は食み出し、あるいは撓み、所々に隙間が出来ていて、そこから中の空洞が覗く。撓み眺める角度によっては、上の方に重ねた層がズレているのが目立つ。《Layered》が雑誌や新聞紙を積み重ねたような印象なのに対して、より小ぶりの正方形の板を高く積み上げた《Build》は塔のような印象を見る者に与える。板のズレや正方形の穴(会場の展示壁面を切り出して見える窓と響き合いもする)が穿たれた面はジェンガのようで、脆い印象も生む。《Layered》と《Build》の題名に共通するのは、述語的であることだ。作家は「つくること」を「誰かが為すことでも何かが成ることでもなくあいだの領域で、さまざまが綯交ぜになって動いていく、その動きのこと」と捉えているが、その思想が作品タイトルにも示されている。
(略)「間」とは、たとえば、外と家とをつなぐ縁側みたいなもの。縁側は外でもあるし、内でもある。両義的要素を併せ持っている。松岡さん〔引用者註:松岡正剛〕は、いつもなにごとも内と外を分けすぎることを嫌っていた。網羅することで境界はむしろあいまいにいなる。
存在とは、もともと「濃度・濃淡のことで、周囲と完全に塀によって仕切られているわけではない。「存在の輪郭は閉じていない。むしろ周囲に溶けようとする」(『フラジャイル』)。したがってその輪郭らしきあたりに派生する「間」こそ存在の本質を衝いている、というわけである。(松田行正「セカイは1つではない。」『ユリイカ』第56巻13号〔2024年11月号〕p.252)
半透明のガラスの箱である《Empty-Ⅱ》など、「存在の輪郭は閉じていない。むしろ周囲に溶けようとする」存在、「濃度・濃淡」そのものの表現と捉えることが可能だろう。白とは空白であり空間であり、周囲である。