展覧会『瀧田亜子展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつか〔Cross View Arts〕にて、2024年11月18日~30日。
《高昌故城》、《交河故城》、《トルファンの黒い月》、《トルファンの十字路》、《カシュガル》など西域に着想した絵画で構成される、瀧田亜子の個展。
《高昌故城》(330mm×240mm)や《交河故城》(330mm×240mm)はトルファンの古代都市遺跡を主題に、ベージュや黄土の空、黄緑の草原、灰色の大地の中に、オレンジ色の矩形とその内部のアーチが描き込まれている。大きめのドットなどのタッチで規則的に塗り込められた空や大地に対し、は記号のような図形化された城門は都市や文明を象徴する。オレンジないし朱色の線により光のように表わされるのは、過酷な環境からの人々の避難所であり、現在から歴史への通路であることを訴えるようだ。
《トルファンの黒い月》(330mm×250mm)では茶色い曠野の中に三角形の峻嶮な山と黒い円の月を、《パオ》(375mm×240mm)では三角形の住居と格子状のタイルを、《トルファンの十字路》では黄色い沙漠の中の焦茶色の十字路を、それぞれ幾何学図形を配するようにして表現してある。
以上の作品に対置されるのが、《砂嵐》(1420mm×950mm)である。暗い空を白い砂が濛々と巻き上がる。黄色い大地に立つ幾つかの赤紫色の縦線は人の姿か、あるいは構造物か。幾何学図形の精緻な世界に対する混沌の世界である。それらのどちらも1つの世界を成している。
都市遺跡などの絵画と《砂嵐》との間に配される、《カシュガル》(950mm×1420mm)は、黒い線に白の円の構造物らしきものの周囲に赤紫、山吹、黄色などの色彩が力強く乱雑に塗り込まれる。2つの世界を繋ぐ間(あわい)となっている。
水は長らく、大地との比較で、退けられてきたものだ。フーコーは「水と狂気」という論文で言う。「西洋的想像力の中で、長らく理性は確固たる大地に属するものだった。島であれ大陸であれ、それは揺るがぬ頑固さで水を退け、水に砂地しか譲らないのである。非理性の方は、大昔からごく最近に至るまで水と結び付けられてきた。(略)無限の、定め無き空間。(略)狂気とは、巖のような理性の外部で流れる液体なのである。」(ミシェル・フーコー思考集成1』「水と狂気」蓮實重彦監修、筑摩書房)
つまり狂気としての水は、理性としての大地に締め出され、周縁化されている。それでもなお水は、大地の外で永遠に、自由にたゆたっている。(中村佑子「女が狂うとき(3) 水と大地――《バシャ》と「赤い沙漠」」『図書』第909号〔2024年9月号〕p.43)
乾いた世界に水が流れることで世界は保たれる。嵐の無い世界は存在し得ない。描き出されていない狂気としての水の流れる様をこそ作品から汲み取るべきだ。