可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 稲垣美侑個展『Root/Shoot』

展覧会『稲垣美侑「Root/Shoot」』を鑑賞しての備忘録
SOM GALLERYにて、2024年11月13日~12月1日。

植物や生き物をモティーフとした絵画や陶器に切り出した板を取り合わせることで、展示空間の室礼を企図した、稲垣美侑の個展。

《Garden plot》(330mm×242mm)の両脇には生垣のように緑の帯が縦に走り、それらに挟まれた中に植栽や土や道や草地、あるいは何らかの構造物が半ば抽象的に描かれている。2頭の黄色い蝶(?)の辺りで画面を横切るピンクの線は蝶の動きを示すものだろうか。《Symbiosis-01》(367mm×443mm)は茶系統を中心に緑や黄などの矩形が余白を残しながら配される。土や植物とを表わすようであるが抽象度が高く判然としない。傍の低い位置に切り出した板が葉のように設置され、木製の直方体の台座に渦巻の陶芸作品《Snail》(74mm×42mm)が載せられている。また柱の見上げるような高い位置には、余白の明るさを活かし、松葉と青空を表わしたような絵画《Daylight, Passing breeze》(410mm×318mm)が掛けられている。
《Spontaneous》(530mm×530mm)には、余白を多く取った画面の半分以上を2つの連続する筆記体の"e"ないし"l"のような黄色い線が走り、その周囲に緑系統の色が添えてある。植物と、光のエネルギーの循環が表現されている。
《Butterfly》(227mm×158mm)の画面は右側に縦に2つの正方形(厳密には横長の方形)と左側に2つの長方形の4つに区画され、右上の白い「正方形」と、右下の「正方形」に描かれた黄色の扇形とそこに描き込まれた焦茶の円が蝶の羽を想起させる。飛翔を表わすべく壁の高い位置に掛けてある。対して、その近くで床に近い位置に飾られた、画面の右上に茶を中心に緑を混在させた《Microbes》(318mm×410mm)は、とりわけ画面中央に縦に走る朱や茶の線が、右上の連続する青い点と相俟って蟻とその巣のようで、地中の断面図の印象を受ける。《Shoots, Flying insects》(530mm×530mm)は木枠に上部だけ留めた綿布に、柵越しの植物を縫うように飛び廻る虫の跡をオレンジの点線でヘアピンカーブの続く山道のように表現してある。絵画のモティーフによる運動エネルギーと、絵画の設置場所による位置エネルギーとが緊密に結び付けられている。
《Vacant lot》(443mm×367mm)は、緑の細かな線を描き込んだ作品。空地は草が生え、そこに集う生き物の蠢く場である。決して何も無い空間ではない。
《Sunlight》(455mm×530mm)は、ほぼ全面に黄色が塗られた画面である。黄には濃淡や染みによる変化が付けられ、わずかに朱や緑が配される。 《Sunlight》は展示室の角に2つの壁面に跨がる形で設置されている。その傍の床に敷かれた有孔ボードは、太陽光を受ける大地であり、その穴は光エネルギーを受け取る生命であることが暗示される。
表題作《Root/Shoot》(227mm×158mm)は小さな作品である。《Garden plot》に似た印象であるが、綿布の素地を残して緑や黄や茶を配してある点と、縦や斜めに走る線や横方向の線を積み上げた形が伸びゆく植物を想起させる点とで異なる。《Root system》(727mm×606mm)には緑や水色などが散らばる、万華鏡を覗いたようなイメージが表わされている。他の作品と比べて水色が多く用いられているのは、水の循環を示すためではなかろうか。
《Phyllotaxis》(380mm×455mm)は画面を6つの区画に分け、円弧が表わされた、幾何学的な作品。ビリジアンによる塗り潰しの部分が多く、円弧に葉の姿を連想させる。規則正しい葉の連続は、葉序(phyllotaxis)そのものである。
《Meristem》(158mm×227mm)は緑系統の横線を縦に積み重ねた中に灰色やオレンジの線が鏤められる。《basal shoot》(227mm×158mm)は不定形のピンクに5本のモスグリーンの線を配し、画面中央に緑色の紗を被せてある。《Meristem》《basal shoot》は低い位置に配され、傍には山型に切り出した板や、有孔ボードと陶器を組み合わせた《A vacant lot》(130mm×170mm)、さらにはギザギザとした部分を持つ板が床から浮くように設置されている。床から浮いた板には、展示作品中最も具象的に表わした枝《Branch)(20mm×212mm)が床から立て掛けてある。壁と床と、あるいは絵画(平面)と陶器(立体)との接続が示される。
《Inflorescence》(606mm×910mm)はキャンヴァスを切り出すことで連続的な十字花植物を表わした作品。花序(inflorescence)の表現と言える。切り出したモティーフを貼り付けるのではなく、画布を切り抜いてモティーフを残す技法がユニークである。それはルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)の「空間概念(Concetto spaziale)」シリーズを連想させ、平面作品と空間作品との境界を跨ぎ越す。
《Soil texture》(410mm×318mm)は、ご飯とおかずの2つの部分に分かれた弁当のような印象の絵画。上半分に白を、下側には緑を取り巻く茶、ピンクを配する。空気が土(中の生物)を生かしていることを表すのかもしれない。真下の床には緩やかな弧を描く板が設置され、近くには陶製の蝶《Tiny bytterfly》(150mm×94mm)が掛けられているのは空気の流れを象徴するようにも思われるのだ。

具象と抽象、平面と立体、壁と床などの境界を跨ぎ越すことで、作品が空間の一部に過ぎず、翻って空間全体が作品となる結構になっている。とりわけ、余白――空き地と言っても言いだろう――が決して何も無い空間ではないことが訴えられている。少なくとも空気はあり、空気が循環する。

 生きものに最も共通してみられる最もありふれた現象、すなわち呼吸から出発しよう。世界に対するわたしたちの関係は、なによりまず空気にかんする関係である。わたしたちにとっての空間は、たんに歩き回ったり、見たり、触れたりするための空間であるのではない。ハビタブル(居住可能)な空間はすべて呼吸可能な空間でなけrべあならない。それゆえ空間はなによりまず呼吸の対象、わたしたちの肺の糧なのだ。(略)
 (略)わたしたちは空気を、さまざまな要素のなかで最も自然なもの、つまり自然を操作する行為をまったく超えた、その最も純粋な形態において存在しているものと考えるのに慣れている。しかしながら21パーセントの酸素が含有されている空気というのは植物の生の副産物でしかない。それは植物の代謝に由来するもの、植物の暮らしから出た廃棄物である。別の言い方をすれば、誰かによって修正された存在、アーティファクト(手を加えられた物)なのだ。つまり、人間であったり人類と結びついた種に属する個体であったりに由来しないプランやプロジェクトから世界に生じた派生物である。もっとも、こうした偶然的でノンヒューマンなコンセプシオン(構想)は、世界をわたしたちにとって生存可能なものにする。動物が決定的に陸地に居を定めることは、地球を取り囲んで包んでいる大気圏が根本的にメタモルフォーゼすることでしか可能でなかったのであり、そしてこのメタモルフォーゼは植物による侵略とシアノバクテリアの活動とによって生み出されたということをわたしたちは知っている。光合成によって生み出された酸素なくしては、地上の大気は長期にわたってその内的構成を変化させることはなかっただろうし、世界は動物的である以上に植物的な存在である。世界が1つの庭であるなら、植物はこの庭を満たすものやその住人ではない。あるいは、真にそうであるのではなく、あるいはたんにそのようなものであるのではない。植物こそが庭師なのだ。このように認めることは、地球には超越的であったり本源的であったりするものがまったくないことを意味する。地球とは庭造りの対象であるのだ。わたしたちは他の動物と同様に、植物による庭造りという活動の対象である。わたしたちはキュルチュール(栽培)やアグリキュルチュール(農業)を通じて植物たちが生み出したものの1つなのだ。よりくだけた言い方をすれば、植物は風景なのではなく、まさに最初に現われた風景作家なのである。植物は世界をメタモルフォーゼさせる。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.166-168)