展覧会『南林いづみ「鏡 誰か または誰かと呼べる何か」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2024年11月28日~12月9日。
歪な形に張ったキャンヴァス一杯に描かれる人物や皮が印象的な絵画作品と5点と立体作品1点とで構成される、南林いづみの個展。
《向かい風の顔》は、横長のキャンバスの右側を円弧状に切り取った画面に、ルネ・ラリック(René Lalique)のカーマスコット《勝利の女神(Victoire)》を連想させるような頭像を表わした作品。変形の画面一杯に人物の横顔が表わされる。左側の縦にほぼ真っ直ぐの線から前髪が前に飛び出すのに対し、鼻はつぶれたように表わされない。切れ長の大きな目と固く結ばれた口が描かれる。右上に上がる顎の線の先に耳があり、髪が耳の前で垂れ、後ろで風に吹き流されるように波打つ。頭頂部が画面の上端に沿って扁平なのに対し、画面下部では首の周囲が不定形に切り取られている。灰色の肌は陰影が与えられセメント像のような立体感が表わされる。その立体感に対し、顔に無数に入れられた赤い横線とそこから2,3滴垂れる赤い描き込みによる疵の表現は顔の凹凸を無視して平板である。頭像の周囲の僅かな部分には水色の絵具が噴霧したように着彩される。デフォルメと写実的表現、平面と立体など異なる要素を1つの作品に押し込もうとするときに受ける反発が、「向かい風の顔」に受ける力に仮託されているようである。
《鉄と鏡》は下端の方がやや広い不等辺四角形の画面に松明を手にした人物(?)を表わした作品。青空と枯れ草の平原を背景に佇む灰色の肌の「人物」の背には右方向に吹き流されるような翼らしきものが拡がる。胸部から腹部にかけての陰影による筋肉の隆起の表現に比し、顔や翼の表現は漫画のような略画表現である。上端よりもわずかに長い下端附近に火の点いた松明を握る手に向かって腕が次第に太くなり、頭部や肩・胸などに比して極端に大きいため、重力が強調される。重力に抗するように左側では松明の炎が燃えさかり、右下からは弧を描く黒い線が左上に向かって伸び上がる。一見、「人物」の尻尾かとも思うが、人物とは切り離されている。展覧会タイトルの通り「鏡」が「誰か/または誰かと呼べる何か」であるなら、「鏡」の翼とは反対向きに曲がる黒い線は「鉄」ということになろう。「鉄」は歪な画面のバランスを保つための柱として機能している。また、翼を持つ「人物」を天使にも悪魔にもする変換器でもある。さらには鉄が地球の3分の1を占めることから大地を、延いては重力を象徴しよう。
《死が最も近い(誤謬)》は縦長の方形の画面に剣を持つ人物を描いた作品。《向かい風の顔》や《鉄と鏡》と同様、人物は灰色の肌を持つ人物が描かれるが、白い髪の表現は平板であり、塑像的イメージは緩和されている。また、背景は青ではなく臙脂である。右上で90度に曲がる首、上端に沿って扁平な後頭部と真下を向く顔、ほぼ垂直の背中など右端に沿った胴体、画面下端の太い腕、画面左下の大きな拳とそれが握る剣と、画面一杯にデフォルメされた人物は、棟方志功の《二菩薩釈迦十大弟子》などを想起させよう。実際、目を瞑り、目元に当てられた大きな手から伸ばされる指の形などは、どこか仏像的でもある。方形の枠は煩悩に囚われていることを表すのであろうか。一人称(自己)の死は経験できない以上不可知であり、他者の死から想像するばかりである。他者の死という近似値をもって自己の死とすれば誤謬である。
《モデルケース》や《開いたままの門(モデルケース2)》は展開した動物の皮を描いた作品である。モティーフに擬態するかのように、4隅を固定して張ったかのように四辺が内側に彎曲したキャンヴァスが印象的である。木枠に張られたキャンヴァスは皮である。その実体的な皮に描かれた動物の皮はイメージである。絵画は対象ないし現実を映す鏡であることが知られる。皮と鏡という絵画の持つ2つの性格から、皮膚を持ち他者に自己を映し出す人間もまた皮と鏡とであり、絵画であるということになる。それを裏付けるのが、部分的にピンクが差されているが、ほぼ白い立体の人物上半身像《架空の鳥》である。150cmほどの台座に設置されているため、頭頂部は2mほどの高さになる。目などが曖昧に表され、胸には図案化された鳥が施されている。人間は絵画なのだ。鳥が選ばれたのは魂を運ぶメディアと捉えられたからであろうか。鳥ではなく、敢て架空の(imaginary)鳥と題されていることにも注目したい。
《向かい風の顔》に風は表されていない。支持体とイメージとが左から右へと吹く風を想起させる。同様に《鉄と鏡》に重力は描かれていない。支持体とイメージとが上から下へと働く重力を意識に上らせる。存在しないものを描き出す絵画と言える。また、《モデルケース》や《開いたままの門(モデルケース2)》では皮を描くことにより、肉の存在を喚想させよう。《死が最も近い(誤謬)》は死の想像、すなわち想像上の死(imaginary death)であり、言わば一人称の死を虚数(imaginary number)のように捉える試みと言えまいか。
ところで、絵画のサイズが方形なのは、あるいは号数で規格化されているのは、流通の問題であろう。すなわち、方形の画面とは、市場に隷従する画家の姿と言えなくもないのである。作家は、資本主義の支配に抗して歪な絵画で勝負しているのかもしれない。