展覧会『チョン・ダウン「manifesto for a bird of passage」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2024年12月3日~19日。
猟銃のような形状の棒を手にした男と傍らの犬とを描いた油彩画(1620mm×1300mm)「St.Catcher」シリーズ3点と、「St.Catcher」シリーズのイメージを左右反転した上でポーズなどの若干の改変を施した版画(240mm×180mm)「manifest img」シリーズ3点を中心とした、チョン・ダウン(JUNG Dawoon)の個展。版画を緑のインクで刷ることで版画同士を繋ぎ、また油彩画に差された緑により版画・油彩画の展示作品全体を連ねる。さらに小さな展示ブース「Cross View Arts」では壁面に緑色のテープで格子を表すことで作品を展示空間に拡張し、鑑賞者を作品内へと誘う。
《St.Catcher Y》(1620mm×1300mm)は、室内で、青いパンツに緑のジャケット、山吹の頭巾を被った男が、左手で熊の着ぐるみの人形を抱え、右手で猟銃のような形の棒を摑んで立つ姿を表した油彩画。傍らには犬が坐っている。茶色い床に黄緑の明るい影が映える。画面向かって右上には吹き出しの線が描き込まれているが、中に言葉は記されてはいない。ティーポットをモティーフとした緑のインクで刷りだした銅版画《teapot(2)》(110mm×90mm)が作品の右上に接するように飾られている。紫のシャツにオレンジのジャケットを着た男が猟銃のような形の棒を左手に持ち緑色の木製の椅子に坐る《St.Catcher R》(1620mm×1300mm)や、森林監視員らしき人物が右脇に猟銃のような棒を挟んで立つ《St.Catcher B》(1620mm×1300mm)においても、吹き出しの近くにそれぞれ《teapot(3)》(110mm×90mm)と《teapot(1)》(110mm×90mm)が設置されている。ティーポットから吹き出しという器に言葉が注がれることが期待されている。
「St.Catcher」シリーズの対になる銅版画「manifest img」シリーズは、背景の格子が特徴的である。版画は緑のインクで刷られている。主展示室に隣接する小さな展示空間「Cross View Arts」では、版画の世界を空間に拡張すべく、壁面に緑のテープにより格子が表されている。「St.Catcher」シリーズのタイトルからはJ・D・サリンジャー(J. D. Salinger)の『ライ麦畑でつかまえて(Catcher in the Rye)』を連想しない訳にはいかない。緑の格子はライ麦畑のメタファーではなかろうか。ライ麦畑は『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンの夢の中に拡がる。「St.Catcher」たちが黄土の床に黄緑の影(《St.Catcher Y》)、紺の床にピンクの影(《St.Catcher R》)、黄緑の床に水色の影(《St.Catcher B》)の室内にいることも脳内のイメージであることを思わせる。また、matrix(行列や回路)を連想させる格子はサイバー空間にも擬えられよう。「St.Catcher」たちは想像ないし電脳の世界においてcatcherとしての役割を演じているのである。猟銃が芝居の小道具のような木の棒であることからも演劇性が窺える。
仮に「St.Catcher」シリーズと「manifest img」シリーズが『ライ麦畑でつかまえて』を踏まえているのなら、作家が作品で取り上げるテーマはエゴイズムではなかろうか。自己は他者に対して自らの優越性を主張しようとする。それが自らの存在の証となるからだ。だが他者もまた「自己」と同様の主体である以上、自己の優越性を「他者」に認めさせようとする。結果的に相互に主体性を認めさせようとする矛盾が生じ、闘争に至ってしまう。主体性を他者に認めさせることができないとき、主体性を放棄することがないように救いの手を差し伸べるのがSt.Catcherなのではなかろうか。格子は網目であり、セーフティネットでもあるのだ。
「St.Catcher」シリーズは吹き出しという空白を設定する。それは文字通り自己完結を回避しようとしているのではなかろうか。鑑賞者という他の主体を受け容れる余地を設けることで、自我の承認欲求を僅かでも弱め、エゴイズムの問題を軽減させようとしているように見受けられるのだ。版画は、左右反転する。それは自己と他者とが相互に主体的であることを確認させる鏡ではなかろうか。なおかつ複数性を基本的な性格とする版画は、主体が複数であることを構造的に許容している。主体の絶対性を象徴する絵画と、主体の複数性を象徴する油画とを自在に往き来する作家はノマド(a bird of passage)と言えよう。両者に面か裏かという区別はない。作家のティーポットは「クラインの壺」である。自らの内部に降りていった先には、他者の世界(外部)へと通じるだろう。