展覧会『奥澤華展』を鑑賞しての備忘録
JINEN GALLERYにて、2024年12月3日~15日。
腐食させた銅板により民家などの壁面を表した壁掛けの「まほらば通り」シリーズや貯水槽の置物「ひそむかたち」シリーズなどで構成される、奥澤華の個展。
「まほらば通り」シリーズは、民家など2階建ての建物をモティーフとした壁掛けの作品である。屋根、窓に加え、空気孔、ダクト、配線や非常階段、シャッターなどが取り付けられた壁面は、何より錆により風雪に耐えてきたような表情が枯淡を感じさせる点で目を引く。立体作品ではあるが、壁面以外、屋根は別として、左右や下側は積極的な造型が施されていない。その意味では壁を味わう、言わば絵画的な作品と言えよう。その造型は、江戸東京たてもの園などに移築保存されている看板建築の商店の味わいを連想させるが、「まほらば通り」シリーズが表現するのはファサードではない。裏通りの情景であり、接していた建物が取り壊されて露わになったような建物の背面である。ファサードを太陽、昼に擬えるなら、月や夜の姿、すなわち裏面が表されているのだ。そして、窓などの開口部から覗くのは虚空である。だがその虚空は決してネガティヴなものではない。見る者が自由に内容を充填できる余地、余白なのである。譬えるなら、パトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith)の小説『ブラックハウス(The Black House)』に登場する町外れの丘に立つ廃屋である。
幻想空間は中身のない表面であり、いわば欲望が投射されるスクリーンである。そのポジティヴな中身が魅惑的に眼前にあらわれることの意味はただ1つ、ある穴を埋めることである。そのことを完璧に例証しているのが、パトリシア・ハイスミスの中編小説『ブラック・ハウス』である。舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に葉菜を咲かせては郷愁に浸っている。町に伝わる伝説――たいていは彼らの若い頃の冒険談――はどういうわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいてはいけないという暗黙の了解がなされている。(略)物語の主人公は待ちに引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味なイデを探検してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。(略)彼はすぐに居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの1人が狂ったように襲いかかる。(略)どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感を覚えたのだろうか。現実と幻想空間という「もう1つの光景」との差異に注目すれば、彼らの怒りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。(スラヴォイ・ジジェク〔鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.28-30参照)
「まほらば通り」シリーズの建物は窓こそ虚空を覗かせているものの、扉は閉ざされ、シャッターは下ろされている。内部に入り込めない仕掛けにより、欲望を投影できる装置であり続けるのだ。ならば貯水槽の置物「ひそむかたち」シリーズは欲望を溜め込む装置であり、一辺6cmの立方体の箱「転生」シリーズは、壺中ならぬ箱の中に別世界を投影する装置であると言えよう。