映画『おんどりの鳴く前に』を鑑賞しての備忘録
2022年のルーマニア・ブルガリア合作映画。
106分。
監督は、パウル・ネゴエスク(Paul Negoescu)。
脚本は、ラドゥ・ロマニュク(Radu Romaniuc)とオアナ・トゥドル(Oana Tudor)。
撮影は、アナ・ドラギチ(Ana Drăghici)。
美術は、バニナ・ジェレバ(Vanina Geleva)。
編集は、エウジェン・ケレメン(Eugen Kelemen)。
音楽は、マリウス・レフタラチェ(Marius Leftãrache)。
原題は、"Oameni de treabă"。
ルーマニアのモルドヴァ地方にある国境沿いの村。鶏を入れた籠を積んだトラックが走る。段差を超えた際に激しく揺れ、1羽の鶏が荷台から飛び降りた。トラックは走り去り、鶏は車道から離れていく。
イリエ(Iulian Postelnicu)が町に出て、前妻のモナ(Oana Tudor)と共同所有するアパルトマンで会った。なぜ突然売ることにしたの? 突然じゃない。長いこと空き家だったろ。入居者がいなくても9年間も放っておいたじゃない。不動産価格が下落してるのに何故売りに出すの? せいぜい2万ユーロよ。共有名義にしたけど、どちらかが売却を申し出るまでだって約束だっただろ? お金が必要なの? 借金? それとも医療費? 2万ユーロって誰が言ったんだ? いくら必要なの? 2万5千。1人当たり2万5千ユーロ? どこから出てきた数字なわけ? 1階の2部屋が5万ユーロってこと? 1階だけど仕事場にはいいだろ? あなたは自分の都合のいいようにしかものを見てないのよ。物置もある。改装したからそこで寝ることだって出来る。残業するなら物置で寝られるでしょうけど。お金は何に必要なの? とにかくお金が必要なだ。何のために? 果樹園を手に入れたいんだ。果樹園? 来訪者がある。イリエがインターホンに出る。021120を押して。兄が何故ここに? 電話してあなたが町に出て来るって伝えたの。知らないって言ってたわ。コルネル(Vitalie Bichir)が部屋にやって来て、モナと挨拶を交わす。町に出て来るってどうして言わなかったんだ? 資材調達で走り回ってたから。お前はいつも忙しないな。洪水がやっと引いたばかりで村には仕事が山積みなんだ。新聞は読んでるさ。コリーナがよろしくってさ。コリーナと子供たちは元気にしてる? ハリー・ポッターの吸血鬼が夜中に現われるって騒いでる。10歳なのに想像力が豊かね。うちの子はどんな話をしても寝ちゃうけど。もう2歳だよな? 2歳4ヶ月。ジャン・フランソワは? 仕事でイスラエルにいるわ。達者よ。モナが兄と話すのを黙って聞いていたイリエに兄が尋ねる。で、お前さんはここを売りたいのか? 町には戻りたくないのか? そうじゃないけどさ…。田舎で恋人でもできたのか? 他所へ出て行く元手が必要なのか? 果樹園を手に入れたいんですって。理由は教えてくれなかったけど。煙草をもらえる? イリエがコルネルに煙草を強請る。昔から果樹園みたいな所が好きだったな。美しい桜の木があるだろ。もうそんなに残ってない。大志を抱いてたよな。本当に田舎の警察官でいいのか? 村を気に入ってるんだ。呼び出し音がする。イリエがインターホンに出る。021120を押して。悄気ていたイリエが不動産業者をにこやかに迎え入れた。先にご覧下さい、後で話しましょう。この手の物件には詳しいですよ。明るくて広々してます。どうぞご覧下さい。拝見します。不動産業者がモナやコルネルに挨拶して中を見て廻る。果樹園にはいくら必要なの? 考え直した方がいい。植物相手の投資は難しぞ。植物について何を知ってるんだ? 子供の真似事じゃないんだ。先ほども申し上げましたが、この手の物件には精通しています。で、いくらくらいになりますか? 1万8千でしょうか。良くても1万9千は超えません。物置はご覧になりました?
イリエがピックアップトラックで材木を運ぶ。なだらかな丘陵の草叢で腰を降ろし、緩やかな川を眺めながらペットボトルの水を飲む。水場でペットボトルに水を足し、再び車を走らせる。
放牧地帯を抜けて村へ入ると、道は泥濘み、残された樹木の撤去など洪水からの復旧に人々が当たっている。村人と話していた村長(Vasile Muraru)がイリエに気が付き、車を近くに停めるよう指示した。
ルーマニアのモルドヴァ地方の牧畜地帯にある自然豊かな村。警察官のイリエ(Iulian Postelnicu)が同僚のモナ(Oana Tudor)と離婚して村の駐在所に転属されて10年になる。遣手の村長コンスタンティン(Vasile Muraru)のお蔭で僻地にも拘わらず村人は不自由の無い暮らしを送っており、イリエはコンスタンティンと妻ヴィオリカに可愛がられている。村は洪水に見舞われ、コンスタンティンが陣頭指揮を執り村人総出での復旧に当たっている。イリエは資材の調達で町に出た序でにモナに共同所有のアパルトマンの部屋を売りに出したいと伝える。モナは放置していた物件を不動産価格の下落している今売りに出す必要はないと乗り気で無い。駆け付けた兄コルネル(Vitalie Bichir)も売却資金で果樹園を始めるというイリエの計画を無謀だと反対する。イリエがコンスタンティンに相談すると、高台にある果樹園を手に入れる便宜を図るという。駐在所に警察学校を出たばかりのヴァリ(Anghel Damian)が配属されて間もなく、パリシウクの死体が発見される。近頃コンスタンティンはパリシウクの妻クリスティーナ(Crina Semciuc)が美しいと何かにつけて口にしていた。イリエは熱心に捜査するヴァリに単独行動は規則違反だと釘を刺す。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
牧畜で暮らしが成り立っている自然豊かな村の駐在所に勤めて10年になるイリエは果樹栽培を新たな生活の基盤にしようと企てる。警察の同僚で元妻のモナと共同所有している町のアパルトマンの部屋を売却し、果樹園の購入代金にしようと目論むが、モナは不動産価格が下落しているときに売るのはよくないと反対する。
コンスタンティンは辣腕の村長で、自ら豊かな暮らしを送るとともに、村民にも不自由の無い暮らしを実現してきた。洪水被害に対しても必要な資材の手配や牧畜家に対する補償などに機敏に対応する。コンスタンティンの財力の源は密輸である。物事は白黒つけられるものではなく、良い面を見なくてはならないと嘯く。パリシウクの美しい妻クリスティーナに懸想したコンスタンティンは司祭(Daniel Busuioc)と共謀してパリシウクを亡き者にする。コンスタンティンはイリエに果樹園を提供することで事件を闇に葬り去ろうとするが、新人警察官ヴァリが事件を嗅ぎ回る。コンスタンティンの意を受けたイリエはヴァリを抑え込もうとする。
イリエはもともと正義漢だった。10年前に起きた出来事により挫折したイリエは村に転属を願い、穏やかな生活を送ることにした。イリエが売却しようとするモナと共同所有のアパルトマンの部屋は不正を暴く熱意に燃えていたかつてのイリエの名残である。それを売り払い果樹園取得の資金に充てることは、正義を実利のために放棄することを象徴する。モナが物件を売却することに反対するのはイリエに正義感を失って欲しくないからでもあろう。ある出来事がイリエの中で燻っていた正義感を焚き付けることになる。トラックで運ばれていた鶏が、トラックが段差を超えた際の衝撃で逃げ果せたのは、イリエのメタファーである。
川は必要なものを奪い、必要の無いものをもたらすとコンスタンティンは言う。実際、コンスタンティンの身に言葉通りの出来事が出来するだろう。
村の自治会長が悪に手を染め、その資金で村民の生活を成り立たせるとともに村民を支配している、映画『嗤う蟲』(2025)に通じるものがある。