可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『花器のある風景』

展覧会『花器のある風景』を鑑賞しての備忘録
泉屋博古館東京にて、2025年1月25日~3月16日。

住友コレクションから花器と描かれた花器を紹介する企画。第1章「描かれた花器」では江戸期の華道書の版本、江戸期から昭和前期までの生け花を描いた絵画を、第2章「茶の湯の花器」では、住友家三代当主・友信(1647-1706)、12代友親(1843-90)、15代友純(号春翠)(1865-1926)に纏わる茶道具としての花器コレクションを、第3章「大郷理明コレクションの花器」では、華道家大郷理明から寄贈された銅花器を、第4章「さまざまな花器」では、明治期に輸出品として製造された花器などを、展観する。

第1章の解説によれば、「花を花器にいけるという行為は、花をなにか明確な意図を持って自然のままの状態から切り離し、まったく別の環境に置きなおすこと」である。仏像や仏堂を荘厳するための三具足の1つとして、花器が用いられ、平安時代仏画などにも、しばしば花を生けた花器が登場するという。宋朝では古銅器を模した陶磁器がつくられ、自己表現として花がいけられるようになると、取り合わせる器にも陶磁器だけでなく金属器、ガラス器、竹や籐で編まれた器も用いられるようになる。中国の花器は唐物として将来され、室町時代以降、座敷飾りに珍重された。
改めて花道誕生までの歴史を簡潔に辿ってみたい(以下、熊倉功夫・井上治『日本の伝統文化シリーズ5 茶と花』第2部第1章・第2章〔井上治執筆〕参照)。
神道においては花を奉ることに依代的な性格があった。仏教では、釈迦が花で示した教えを摩訶迦葉だけが理解した「拈華微笑」の故事が華道書で言及される通り、供華の伝統がある。大略、奈良時代の散華(例えば、大仏開眼供養の際に歌われた「東の山びを清み新鋳せる盧舎那仏に花たてまつる」)から平安時代の供華(例えば、「絵因果経(過去現在意が経絵巻)」に描かれた花瓶に指された供華)へと展開した。次第に仏の座を飾る荘厳華へと転じ、それに伴い造形性・デザイン性で華やかさが追求されるようになる(例えば、「平家納経」安楽行品見返し絵)。鎌倉期には明障子の出現など建築様式の変化、また禅僧を介した唐物花瓶の流入により、室外の大型の瓶に挿すのではなく、室内の小振りな花瓶に花が立てられるようになった。室町期には茶や連歌同様のギャンブルの1つとして花会が催され、唐物の花器や花台の優劣が競われたという。遊興の場である会所を飾る挿華の世俗化(例えば、同朋衆の能阿弥や相阿弥による座敷飾りの記録『君台観左右帳記』など)は、花の形への関心を芽生えさせた。池坊専応は『池坊専応口伝』において挿花は「野山水辺ヲノヅカラナル姿を居上アラワ」すととともに「拈華微笑」などの故事を引いて「悟ノ種」を得るべきことを記し、眼前の自然美をも透過する超越的な表現を成し得るという花道の思想を表明するに至る。
第2章で×印を大胆に遇った《高取花入 銘出山》[Ⅱ24]や船徳利を転用した波に揺られたような《備前船徳利花入 銘雪ケシ》》[Ⅱ26]など屈強さを感じる花器を眺めたり、あるいはホールの展示ケースに並べられた江戸の版本に描かれた生け花の花器に類するものを第3章で大郷理明コレクションの銅花器に見出すのも面白いが、第1章「描かれた花器」が白眉ではないか。原在中・在明《春花図》[Ⅰ06]椿椿山《玉堂富貴図(三幅対のうち)》[Ⅰ07]に大きく描き出された花を生けた水盤や手籠は、第4章で紹介される華やかな輸出磁器を圧倒する。村田香谷《花卉・文房花果図巻》には花器や文房具以外に野菜、果物、昆虫や魚までが表わされ、飛び回る蝶や蜂を描いたオランダ黄金時代の静物画に通じる楽しさがある。他方、浦上春琴《蔬果蟲魚帖》[Ⅰ14]の薔薇と茉莉花を活けた貫入の表われた青磁や、あるいは竹内栖鳳・神坂雪佳《曼陀羅華に籠》[I04]の籠に添えられた曼陀羅華の花には清涼感を喫することになる。《唐児遊図屛風》[I08]は花車の周りで花の採集に駆け回り、あるいは遊び、喧嘩し、悪戯する子供たちの奔放な姿にこそ目が奪われ、笑みが溢れる。「拈華微笑」、おのずからなる?