展覧会『そこに光が降りてくる 青木野枝/三嶋りつ惠』を鑑賞しての備忘録
東京都庭園美術館にて、2024年11月30日~2025年2月16日。
青木野枝の丸く溶断した鉄を組み合わせた立体作品と、三嶋りつ惠の無色透明のガラスによる立体作品とで構成される展覧会。
三嶋りつ惠
鑑賞者を出迎えるのは、玄関脇の第一応接室に飾られた《VENERE》[M01]である。ガラス球を7つ組み上げた抽象化されたウェヌス像は、美の誕生を象徴する。ガラス球はウェヌスが生まれた海の泡の見立てであろう。泡は「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)の泡沫に通じる。《光の海》[M03]は白く光る台の上に、プランクトンのような有機的形態のガラス器を並べたもの。「プランクトン」は海で誕生し揺蕩う。《宇宙の雫》[M04]は天井と床を垂直に結ぶ40以上の歪んだガラス器による柱状の作品である。歪んだガラス器はバロック(barocco)であり、光である。光のエネルギーが滴下されるのは、生命を象徴する水である。《光の場》[M08]では六角柱の側面にガラスのビーズを垂らすが、《宇宙の雫》[M04]を複数化した作品とも言える。生命に光をもたらす太陽そのものは、本館3階のウィンターガーデンに設置された《HELIOS》[M24]である。ヘリオスは2体の人物のように表わされている。太陽が2つ表わされるのは、地球が楕円軌道を描いて公転していることを表わすためかもしれない。
恐らくメドゥーサの頭部を模したと思われるガラス器《MEDUSA》[M12]は、作家が日本の美の特質として挙げる、映るものへの眼差しを象徴した作品である。ペルセウスはメドゥーサ退治に際して、石化を避けるべく、磨いて鏡面にした盾にメドゥーサを映したからである。《MEDUSA》[M12]は書棚のガラスに映して見るべきかもしれない。《CRISANTEMO》[M21-M22]は、床に花(菊?)の形をした小さなガラス器を三角形あるいは正方形に並べた作品である。ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の日本文化論『菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)』)を連想させる菊(crisantemo)に作家の日本文化観の表明を見て取ることができる。敢て作品を見づらい状況にしてあるのは、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(『徒然草』第137段)であろう。
青木野枝
《ふりそそぐもの》[A05]は鉄の板を溶断した大小の輪っかを組み合わせて器にしたもので、ところどころに赤いガラスを嵌めた鉄の輪を取り付けてある。個々の輪は生命を表わすのであろう。個々の存在はもとより死ぬ。だがその命は別の存在に受け継がれる。輪によって構成される器もまた、リレーされる生命そのものである。
作家のノートには、那智大滝の標縄張り替えの写真が貼られていた。結界ないし境界に対する関心が明らかである。《ふりそそぐもの》[A09]では赤いガラスを嵌めた鉄の輪が円柱形の塔から吊されている。神聖な場の結界とし神仏を招く勧請吊(標縄に細綱を垂らしたもの)に擬えられよう。《ふりそそぐもの》[A11]はすり減った石鹸が塔のように積み重ねられている。賽の河原であり、三途の川、すなわち此岸と彼岸との境界を連想させる。生と死との境を往還させるのが作家の狙いであろう。
無題の塔[25]には螺旋が巻き付く。螺旋は腸であり、ミクロコスモスとしてマクロコスモス(宇宙)と照応する。《ふりそそぐもの》[A10]は「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭を積み上げたものである。闇(地中)から輝きを取り出す。反転である。
第一応接室の無題の鉄の塔[A01]を炎と鍛冶の神ヘパイストスに擬えることは可能であろうか。同室に展示される、アフロディテに比せられるウェヌス[M01]の結婚相手はヘパイストスであったからである(因みに、アフロディテの浮気をヘパイストスに告げ口したのはヘリオスである)。
三嶋のアフロディテに対して青木がヘパイストスであるなら、三嶋の海に対して、青木は陸でもある。そもそも地球とは鉄球であり、鉄で作品を作ることは、母なる地球=大地(the earth)の助産師役を買って出るに等しい。流体の存在論に従い、地質学的なスケールで地球に眼差しを向けるならば、陸と海とは容易に反転するのである(「恵比寿映像祭2025」に出展されている劉玗《If Narratives Become the Great Flood》 (2020)では、神話が人間のスケールではなく地質学的なスケールの眼差しであることがよく分かる)。
両作家の作品とも、神を勧請し、命を育む、光が降りてくるための器なのだ。