展覧会『西島直紀展「時の回廊」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2025年1月30日~2月15日。
石、水辺や水路、壁画や名画から引用したイメージなどを3つの画面に組み合わせた絵画で構成される、西島直紀の個展。
キーヴィジュアルに採用されているのは、セシル・ビートン(Cecil Beaton)の写真"Fashion is Indestructible"(1941)の瓦礫を前に佇む女性を描いた画面を真ん中に、岸に裏返されて置かれたボートと水路とを表わした左の画面と、水辺の景色と川岸に留るボートを描いた右の画面とで構成される、《時代》(754mm×1355mm)である。赤味がかるか黄味がかるか、色味は異なるが、いずれもセピア調で描かれている。水の流れとボートとにより時間の流れを意識させつつ、その流れを戦災による瓦礫によって断ち切るようだ。往事の流行の衣装を着こなした女性の場違いな感じが、その時の断絶を強調する。
《静かな物語》(300mm×848mm)は、薄紫で表わした滝を、後ろ姿の女性(ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)のフォトペインティングにありそうなイメージだが典拠は不明)の左画面と、ジョン・テニエル(John Tenniel)によるチェシャ猫を前にしたアリスの右画面とで挟んだ作品。チェシャ猫の出現と消失とを目撃するアリスの存在が、時の流れを眺めるイメージを生み出す。
《古典的風景》(307mm×1050mm)では、滝のイメージが、ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の《通りの神秘と憂鬱(Mistero e melanconia di una strada)》に登場する輪を棒で転ばして遊ぶ少女と、市松模様の帽子を被る男性の横顔(パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello)の絵画に基づくらしい)とが組み合わされる。水が象徴する時の流れを、左から右へ向かう少女と、左向きの男性とで挟む構図である。
《うつる石(しか))(250mm×850mm)は、中央のラスコー壁画の鹿を描いた画面の左右に、それぞれ異なる石の欠片を描いた画面で挟んだ作品。石は抽象的な空間に配されるが、置かれるのは鏡のようで、その姿が映り込む。2万年前の壁画と、地質学的な時間を秘めた石とが悠久の時間を伝える。
あらゆるものは光を浴びる。ならば光を浴びる石もまた様々な光景を目撃したと言える。石もまた一種の記憶装置である。もっとも、その記憶を視覚像として取り出すことはできない。それに対し、人は、目にしたものを描き出す。それは記憶をその場にいない他者と共有することを可能にする。
「水路巡礼」シリーズは切石の水路を描いた作品である。《時代》を初め、水路あるいは川や滝のイメージが会場の壁をぐるりと取り巻いている。言わば、マウリッツ・エッシャー(Maurits Escher)の《滝(Waterval)》の無限に循環する水路をインスタレーションとして展開していると言って良い。
もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述は、ロベスピエールにたいしてこれほどまで誇り高くはないであろう。ところがその歴史は、繰り返されることのないものについて記述されているので、血に塗れた歳月は単なることば、理論、討論と化して、鳥の羽より軽くなり、恐怖をひきおこすことはなくなるのである。すなわち、歴史上一度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロベスピエールとの間には、はかり知れないほどの違いがある。
そこで永劫回帰という考えがある種の展望を意味するとしよう。その展望から見ると、さまざまな物事はわれわれが知っている姿とは違ったように現われる。それらの物事は過ぎ去ってしまうという状況を軽くさせることなしに現われてくる。このような状況があるからこそ、われわれは否定的判断を下さなくてもすむのである。どうして消え去ろうとしているものを糾弾できようか。消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである。ギロチンでさえも。(ミラン・クンデラ〔千野栄一〕『存在の絶えられない軽さ』集英社〔集英社文庫〕/1998/p.6-7)
映画『ファーストキス 1ST KISS』(2025)では、赤い糸が断ち切れないからこそ運命であることが訴えられていた。避けることのできない運命を奇跡と甘受するとき、いかに生きるか最善を尽そうとすることになる。運命を死にまで突き詰めれば、誰にとっても当て嵌まる定理となる。「消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らす」ことになるだろう。そう、ギロチン=死でさえも。
むこうみず
今日も、川べりで
ささやく声をきいた
「きみはまちがっている」
ふりかえることも
なぜかと問うこともできないから
泣いてしまう
子どものころのように
しんとした水に石で挨拶し
いちばん遠い波紋を
いつまでも、いつまでも
みつめていた
おもしろいわけじゃないだろう
おれなんかのうしろに裸足で立って
草たちを笑わせている男
そいつが去り
こんどはおれがだれかのうしろにそっと立つ
そんな物語に
どこからはいるのか
あと2つ、3つ
愉快な失敗をやらかして
思いもよらないところに波紋をおこしたら
わかるような気がして
名前を知らない草の上に
むぞうさに靴を脱いだ
まちがっている
でも、ものすごくまちがっているわけじゃないだろう
(福間健二『福間健二詩集』思潮社〔現代詩文庫〕/1999/p.48)