可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 横山芙實個展『野辺にあそぶ』

展覧会『横山芙實展「野辺にあそぶ」』を鑑賞しての備忘録
横浜髙島屋7階美術画廊にて、2025年2月12日~17日。

手足を太く表わした包容力のある人物などを風や雨の中に表わす、岩絵具と土絵具とによる絵画で構成される、横山芙實の個展。

《道草》(727mm×606mm)や《佳日》(242mm×333mm)など人物と犬との交流を描く作品が複数ある。表題作《野辺にあそぶ》(970mm×1620mm)もその1点であり、横長の画面一杯に表わされた耳の尖った犬は、右側から抱きつこうと駆け寄る女性よりも大きい。犬は彼女に向かって振り返る。犬の毛並みと女性の衣装とは同じ赤茶色の縦方向の描線が重ねられ、画面中央では同じ様に表わされた眼が眼差しを注ぎ合い、1頭と1人との紐帯が表現される。英語の筆記体の"e"のような緑の線により草叢を吹き抜ける風が、また白い水滴と斜線とで雨が表わされる。犬と女性とが野辺に遊ぶ景観であるが、巨大な犬自体が山野、自然の象徴でもある(横たわる大きな犬に包まれて眠る人物を描いた《夢の頃》において犬の背が山の端となりその向こうに満月が昇ることが類例である)。雨風を世知辛い世間の象徴とすれば、犬は辛い道行を辿るための伴侶ということにもなろう。
《あかるい月》(652mm×455mm)には女性が二人の子を胸に抱き留めた場面が描かれる。女性は太い手で子供たちを抱え、子どもたちは母親の胸に身を寄せる。同じ形の丸い顔に目鼻耳、髪、衣装などが同じように表わされることで一体感を生む。朧月が浮かぶことで女性の流れる髪が稜線に見える。女性は山の神に見立てられているのかもしれない。
神話的な作品は、横幅が7メートル近くある《風のまつり日》(1940mm×6790mm)である。M120号7枚を継いだ画面の右2枚には人物の巨大な頭部が表わされ、その口から噴き出された青いエクトプラズムのようなものが、画面下部から覗くな右手と左手とにより作られた流路を画面左端へ向かって吹き抜ける。野分であろう。草原を渡る風を擬人化したと思しき二人の童子がその勢いに吹き飛ばされる(《廻る風》には二人の童子が輪のように動いて渦巻く気流を起こす様が、《風追い童子》には吹き下ろす秋風としての童子が、それぞれ表わされる)。童子よりも大きい風を吹き起こす人物の丸い右肩と顔の輪郭、右手と左手は、どっしりとして大地を象徴するようだ。緑と茶を区切る黒い線による髪の表現は山を連想させ、周囲に配される等高線のような模様は棚田のようだ。山の神、田の神、そして風の神はいずれも自然の恵みであり脅威であり一者なのだろう。
表現される人物の手足は太くがっしりとして、その安定感が包容力を生むとともに、その落ち着きは変化・時間の象徴である風と好対照をなす。たとえ大地とて不変ではない。桑田は蒼海に変じるのである。そこには地質学スケールで世界を眼差しを向ける神話の発想がある(「恵比寿映像祭2025」出展の劉玗《If Narratives Become the Great Flood》 (2020)参照)。それはまた人間を育むとともに翻弄する自然に対する讃歌である。