展覧会『シュテファン・バルケンホール「good day」』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー京橋にて、2025年2月14日~3月22日。
台座ごと彫り出した一木造りの人物像や、人物や生きもの、景観や地図を彫り出したレリーフ作品で構成される、シュテファン・バルケンホール(Stephan Balkenhol)の個展。
《こんにちは》(1695mm×290mm×330mm)は、白いYシャツに黒いパンツの男が両手を胸の前で合せて立つ姿を台座を含めて木材から彫り出した作品。髪、繭、眼、唇、シャツ、パンツ、靴、台座に着彩し、肌は木地そのままに残すことで表わす。大きめの比率の頭部や両手が安定感を生みつつ、手や足の配置などで左右の対称性は微妙に崩され、変化を導入する。ささくれも含め鑿跡を残した荒々しい仕上げであるにも拘わらず、柔和な表情や両手を合せ佇む身振りが静謐な雰囲気を醸す。
《青いドレスの女》(1670mm×295mm×335mm)は、青いワンピースを身につけた女性の立像。髪、眼、鼻、唇、服、靴、台座に着彩がある。頭部の比率が大きく、手などに厚みを強調してある。眼差しの先には、壁に掛かるレリーフ《サラリーマン》(1397mm×995mm×50mm)がある。青い格子の白いタイルで覆われたような世界に黒いスーツの男が左手に革鞄を提げて立つ光景が彫られている。空間に立つ女性像との対照で、スーツの男が壁面に囚われている感覚を覚える。
滝上に掛かる橋のある景観を彫り焦茶の絵具を塗布したレリーフ《庭》(1570mm×1000mm×48mm)はセピア色になった古い写真のようなイメージで、動かない滝は凍り付いた瞬間を伝える。あるいは黒く塗布した板に東京都心の地図を彫り出した《東京市街図》(1400mm×1000mm×45mm)は夜、光に照らし出された蜘蛛の巣のようで、入り込んだ者を身動きが取れないようにしているのかもしれない。矢張りレリーフ・タイプの作品には囚われの感覚が想起される。
黄・水色・赤のぼんやりとした斑入りの緑色のワンピースを着て裸足で立つ女性の彫像《水玉のドレスの女》(1650mm×295mm×330mm)や、グランドピアノであろうか黒い半円形の台座に坐る暗緑色の猫の像《猫》(740mm×840mm×475mm)も含め、一木造りの彫刻は台座と分かち難く結びついている。台座やレリーフの板はモティーフが現象するための「意味の場」であるのかもしれない。
存在するものは、すべて意味の場〔引用者註:何らかのものがなんらかの特定の仕方で減少してくる領域〕に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場になにかある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象していることにほかならないということです。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なせ世界は存在しないのか』講談社〔講談社選書メチエ〕/2018/p.105)
現実空間を共有する直接的なやり取りに対し、スマートフォンなどディスプレイ越しのコミュニケーションの比率が増大している。イメージは加工されて白く飛び、陰影は失われていく。現象の仕方が平滑になるのに追随して人間も化粧や脱毛を初めとした身体加工によりのっぺりとした姿へと変じつつある。生々しい実体から映像に近付き、最終的にはデータという、それ自体は触知不可能な存在へと向かっているかのようだ。安部公房の「バベルの塔の狸」ではないが、人は影を奪われた目玉だけの存在へ近付いているらしい。作家は、ゴツゴツとし、あるいはささくれだった形を敢て示すことで、人間存在の平滑化やデータ化の流れに抗い、あるいは逆行しようとするかのようである。板に彫り出したヌード《女(裸)》(1395mm×995mm×20mm)や《男(背中)》(1400mm×995mm×20mm)、あるいは生きものの姿を彫り出した《牛》(745mm×995mm×25mm)、《カエル》(745mm×995mm×25mm)、《魚》(745mm×995mm×25mm)などは、いずれも刻線の周囲に黒い絵具が塗布されている。電源を切ってしまえば闇に沈んでしまう、ディスプレイに束の間現われる存在を、刻みつけ残そうとする意志が認められる。