展覧会『象牙の塔からの不条理主義者』を鑑賞しての備忘録
Bギャラリーにて、2025年2月8日~25日。
新奇さや独創性を追求してきた芸術は、コンセプチュアルなものとなり、AIによる自動生成など技術の発達とも相俟って一方では「象牙の塔」に籠もる状態に陥るとともに、他方では視覚体験から社会との関わりの実践するものへと際限なく拡張している。芸術という概念が意味をなさない状況で、作家たちの実践を通じて改めて芸術の意味を問おうとする、宮原嵩広の選抜した作家による展覧会。オーガミノリ、TENGAone、細井えみか、増井岳人と宮原嵩広本人の作品を展観。伊勢丹新宿店アートギャラリーでも同時開催される。
増井岳人《燃えてなくなった全てのアートにrest in peace》(600mm×600mm×2600mm)は陶製の鳩のオブジェ。嘴のある頭部と尾羽を持つ抽象化された鳩の背には天井から吊り下げられた数珠繋ぎの球体30個が接続されている。平和(peace)の象徴である鳩と祈りを表わす数珠との組み合わせは、戦災で失われた芸術作品に対するレクイエムのようだ。
細井えみか《Moving object_chair》(510mm350mm350)はキャスターの付いた直方体の椅子で、落ち着いた色味の紫の布に規則的な間隔で取り付けられたボルトナットのパターンがもこもことした形を生むとともにデザインのアクセントとなる。側面2面と底面が覆われておらず、内部に設置した照明により黄色い光を床に投影する。実用性はない灯りである。見た目は愛らしいが座り心地は快適では無さそうで、岡本太郎の《坐ることを拒否する椅子》に通じるものがある。岡本太郎なら、椅子の中に照明があってもいいじゃないか、と言うところだろうか。「無用」の美こそ芸術の中核が存在するかもしれない。伊勢丹新宿店アートギャラリーでは、(ネコ科動物の?)鼻をアクセントにした立体作品を展示している。夏目漱石『吾輩は猫である』の迷亭の講釈を彷彿とさせるか。鼻とは端であり先端である。人の顔の中心に位置する。しかし藝術作品において「目」のようには頻繁に取り上げられることはない。やはりアートは視覚芸術であるが故なのか。
オーガミノリ《無題 B_M.O_01》(1303mm×1620mm)は、アクリル絵具、インク、漆などを用いて灰色の画面を一部黒く塗り潰すととともに、黒や白の描線を引っ掻くように描き込んだ作品。ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier)やサイ・トゥオンブリ(Cy Twombly)の作品などを彷彿とさせる。原初的な表現欲求が発露する荒々しさがありながら、モノクロームの色彩によりミニマリズムの静寂をも感じさせる。伊勢丹新宿店アートギャラリーでは、《無題 B_M.O_01》タイプの作品とともにフランク・ステラ
(Frank Stella)のような屈曲する図形のような画面が対にされ、その対照が面白い。ピエール・スーラージュ(Pierre Soulages)のような、どこか水墨画的な抽象絵画も紹介されている。
TENGAone《mimicry ai bomb》(1120mm×2910mm)は、石ころが転がり、廃車が打ち棄てられた低平な土地で、赤熱の光と湧き上がる煙とを画面一杯に描き出した作品。沙漠での核実験を彷彿とさせる。所々に木、ピンク、青、緑などの付箋が貼られ、「爆発」、「青空」、「白煙」、「荒野」などのモティーフに相当する言葉が書かれている。構想の際のアイデアをそのもまま画面に持ち込むプロセスアートの変種にも、ステートメントを求められる現代アートに対する揶揄にも受け取れる。付箋のメモの中には、絵画と直接関係のないものもあり、生活と制作との不可分を訴えるようでもある。戦争を連想させる本作が、増井岳人《燃えてなくなった全てのアートにrest in peace》の鳩=平和と向き合う形で展示されているのも興味深い。
宮原嵩広の《missing matter-shive》(300mm×300mm×150mm)は大黒天の彫像をアスファルトで半球状に覆った作品。「大黒」の通り、真っ黒の作品である。豊饒の神をアスファルトに埋め込むとは大胆だが、ルーツが破壊と再生とを司るヒンドゥー教の神シヴァにあることを思えば、破壊の相と見ることができる。無論、表されていない半球――それが"missing matter"であろう――が再生を表すことになる。《Syncretic Object Artemis-serin》は獣の頭骨に白い仮面を被せ、上部と左右とに金に塗った鹿の角が飾るなどする。アルテミスは狩猟の神である。獲物を追うためには、獲物について熟知しなくてはならない。獲物そのものになることが必要である。そこには狩る者と狩られる者との反転、融合がある。