映画『ゆきてかへらぬ』を鑑賞しての備忘録
2025年製作の日本映画。
128分。
監督は、根岸吉太郎。
脚本は、田中陽造。
企画は、山田美千代。
撮影は、儀間眞悟。
照明は、長田達也。
録音は、石寺健一。
美術は、原田満生と寒河江陽子。
ヘア&メイクディレクターは、松浦美穂。
衣装デザイナーは、大塚満。
スタイリストは、伊賀大介。
ヘアは、山本理恵子と成澤雪江。
メイクは、中村了太と瀬戸山佳那。
編集は、川島章正。
音楽は、岩代太郎。
大正末期の京都。長谷川泰子(広瀬すず)が蒲団で目を覚ます。隣の蒲団は引きっぱなしになっていたが、部屋の主は姿がない。泰子が障子を開ける。2階にある部屋でガラス窓越しに立ち並ぶ家々に落ちる雨が見える。下の屋根瓦の上に大きな柿の実があった。泰子はガラス窓を開けると手摺を乗り越えて屋根瓦の上に降り柿に手を伸ばす。柿を手にした泰子は部屋に戻り窓を閉めた。
荷物をまとめた泰子が家を出たところへ路地の向こうから赤い傘を差した学生服の中原中也(木戸大聖)が帰って来た。学校へ行ったんだけど雨の中を歩くうち気が変わって。泰子の手に柿の実があるのに気が付く。詩を作ろうと置いておいたんですよ。じっと見ていると分かったと思う瞬間がある。それが詩です。泰子が手にした柿を翳して見る。中也が柿を取り上げて一口囓る。その柿を泰子に差し出す。泰子は柿を受け取り一口囓った。甘い。泰子が出て行く。帰るの? うん。帰るってどこへ? 当てがあるんですか? 何とかなるんじゃない? そんな他人事みたいに。今までも何とかなって来たから…。中也が泰子に傘を差し出す。返せないかもしれないけど…。いいよ。泰子が傘を受け取る。中也は家へ引っ込んだ。泰子が傘を開き、石畳の細い路地を行く。ねえ、ちょっと上がってかない? 中也が2階の窓から泰子に向かって声をあげた。雨が止むまでさ、遊んでいきませんか?
中也は泰子と花札をするがあっさり負ける。旅回りで鍛えたから身ぐるみ剝がされるよと泰子が警告するにも拘わらず中也は再度挑む。
窓辺で煙草を吸う泰子に、寝そべって煙草を吸う中也が尋ねる。俺、いくら負けたの? 3円50銭。男と旅なんかしてさ、いわゆる関係なんてあったわけ? 何の? 身体の。1度だけね。それでさよなら。雨も止んだし、そろそろ行こうかな。宿代稼がせてもらったし。ここにいてもいいですよ。宿屋の代わりに使ってみたら? あなた本気? これでも男と女なのよ。変じゃない。腹減った。飯食いに行こう。旨いレストラン知ってんだ。
2人がレストランで卓を囲む。ワインを口にして美味しいと感嘆の声を漏らす泰子にフランス産だからねと中也。泰子は中也に年齢を尋ねると17だと言う。なんだ3つも下。十分大人ですよ。こんな贅沢していいの? こんなものが贅沢かな。もっと高級な贅沢を探してるんだ。それは? 詩。あなたには簡単なものじゃないの? 詩に似た紛い物だろ。僕はまだこの手で詩を握り締めていない。いつかは摑まえてやろうと思ってるけどね。中也がワインを呷る。
2人が中也の下宿に戻る。寝る準備をする中也に泰子は蒲団をくっつけて敷いていいと言う。一宿一飯の恩義でござんす。無理しなさんな。お姉さん、また会うときの貸しにしとくよ。中也は自分の蒲団に寝る。泰子は灯りを消し、下着姿で蒲団に入る。私に手を出したら承知しないからね、坊や。坊やか。
水場で包丁を使い、廊下の七輪の鍋に切った生姜を入れる。目を覚ました中也に泰子がごはん出来てますよと声をかける。2人が卓袱台を囲み味噌汁の朝食を取る。料理まるで駄目。作ったことないから。なかなか美味しい。味噌汁に入っている大きな具を箸で摘まむ。これ、生姜じゃない? 他に入れるもの無かったから。いけない? なかなか美味しい。これからマキノ・プロに行ってくる。映画の? 映画女優になるんですか? 少しはお金になるでしょ?
撮影所の御殿のセット。泰子は早速、突っ伏す姫に声を掛ける腰元役を演じる。カットがかかる。監督からシェイクスピア気触れの芝居で主役を食わんばかりだと注意される。いつでも主役のつもりですけど、と泰子は悪びれる様子もない。
撮影所から憤慨して帰る泰子が境内を通り掛かると、ローラースケートを履いた中也から呼び止められる。中也は泰子の前でローラースケートで滑って見せる。良い気持ちだ。こいつで遊んでると自分が風になったように楽しくなる。これが僕の精神衛生法。中也は泰子にローラースケートを履かせ、右手を取って歩かせる。少しずつ滑るように進むうち、中也の黒い外套と泰子の灰色のコートが風を孕んで膨らんでいく。
1924年。京都。幼い頃は神童と謳われながら地元の中学を落第した中原中也(木戸大聖)は、下宿して立命館中学校に通っていた。もっとも勉学は疎かに詩作にばかり耽っている。かつて旅回りをしていたという、3歳年上の大部屋女優・長谷川泰子(広瀬すず)と知り合い、同棲させることに。泰子は、監督(BOB)にも大物女優(草刈民代)にも物怖じしない気っ風のいい女性だが、父・鷹野叔(トータス松本)と夫婦仲が悪かった母・長谷川イシ(瀧内公美)が精神を病み幼い泰子と何度も無理心中を図ったことがトラウマになっていた。中也は京都に滞在していた富永太郎(田中俊介)と親しく交際し、アルチュール・ランボーに自らの求める詩を見出すとともに、富永の友人でフランス象徴詩に精通する小林秀雄(岡田将生)の存在を知る。富永が喀血して療養のため帰京すると、中也は泰子を伴って上京することにした。
(以下では、全篇の内容について言及する。)
詩は死に通じる。
中也の詩への傾倒ぶりは、詩を握り締める、あるいは詩を摑むという中也の科白に示される。「握る」・「摑む」という手の動作に纏わる表現は、中也が大事にしている、母に編んでもらった赤い手袋へと連なる。上京後、小林の下へと去る泰子に対し、中也は赤い手袋を丸めて僕の心臓を食らえと茶碗に入れて差し出す。「心臓」は中也の「生」そのものである。中也には、泰子あっての「生」であった。「生」を差し出すことで、中也は死、すなわち詩を手に入れる。
ところで冒頭では、大きな柿の実が登場する。赤い手袋を丸めた「心臓」に匹敵する、立派な赤い実だ。柿の実は「生」を象徴する。泰子は柿の実に手を伸ばす。泰子は「生」を摑み取っていた。
京都に下宿していた当時、中也は泰子と川端を歩き、ともに対岸(≒死)を眺めた。社や風車の回る乳母車を見て、泰子は幼い頃に母に無理心中させられたことが幾度もあったと告白する。泰子には詩心はなくとも、死(反転して、生)を捉えていることを知る。中也にとって掛け替えのないミューズ(詩神)となる。ローラースケートを履かせた泰子の手を引いて中也が駆ける。疾走する2人は風になる。人間の限界を超えると詩=死に至る。
詩人は感情を言葉に変換するのではない。ただ言葉を摑み取る。言葉が無ければ詩はできない。言葉を提供するのが小林である。小林はフランス語を中也に手解きする。中也は小林に発音を矯正されつつ、ランボーの詩をフランス語で朗読する。中也が嬉々として小林と声を合せる様に泰子は激しい嫉妬を駆り立てられる。自分にはない言葉を中也は小林は共有している。泰子が中也と肌を合せることでは決して得られない快楽を確かにそこに見たからだろう。単に泰子を中也と小林とが取り合うという三角関係ではない。3つの愛が絡み合う巴の関係、それは3人が回転木馬に乗る姿によって描かれよう。
泰子は火葬場で中也の亡骸に対面し、彼の胸に赤い手袋を置く。「心臓」の形を崩し、開いて置く。なぜなら中也は既に詩=死を摑んでしまったのだから。
中也が小林とともに海棠の花が散るのを見たとき、中也は花は散るのか散らすのかと呟いた。小林ははっとする。自分は論理(言葉、ロゴス)の人間であり、中也は感性の人間と看做していた。ところが、中也は、花が一輪一輪を計画的に散らしているのだと伝えることで、詩作が感性ではなく、緻密な論理(ロゴス)にあることを示したのだ。
かつて中也は小林の下に去った泰子に柱時計を贈ったことがあった。自らの内なる機械、ロゴスによって、中也は小林と同期していることを暗示していた。中也と小林のシンクロニシティ、それは嫉妬を搔き立てる2人の朗読による合体を連想させ、泰子には耐え難い。だから泰子は中也の贈り物である時計を破壊してしまったのだ。
中也から詩作が緻密な論理であることを暗示され、目利きとして自惚れていた小林はぶちのめされた。中也の死後、小林は自分は何も分かっていなかったと泰子に反省を吐露するのである。