可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 奥山佳子個展

展覧会『奥山佳子展』を鑑賞しての備忘録
OギャラリーUP・Sにて、2025年2月24日~3月2日。

鳥や草木を中心に、動植物や器物、建造物や自然景観に得体の知れないものまでを重ねて合せた木版画で構成される、奥山佳子の木版画展。

キーヴィジュアルの《倦鳥(ウムトリ)》(760mm×540mm)は、木目を淡く青で刷った空に2羽の鳥が向かい合って飛ぶ。画面下部には茎の先に蕾を着けた植物が生え、小壺など種々の雑器、あるいは鱗のある生きもの手(?)などのイメージが重ねられている。シュルレアリスムにおけるコラージュを想起させる作品である。倦鳥が帰る巣の表現であれば、「舌切り雀」における雀のお宿ということにもなりそうである。《夜(ヨ)の守(マモリ)・日(ヒ)の守(マモリ)》(770mm×545mm)でも、去るが塔で監視する構造物と、構造物から溢れ出す色取り取りの雑多な品々が描かれている。
《倦鳥(ウムトリ)》が帰るべき場所の表現であるとするなら、《螺鈿槽(ラデンノソウ)》(565mm×767mm)もまた同旨の作品と言えよう。本作では青で摺った木目は空ではなく水となり、1人舟を漕ぎ対岸(あるいは島)に向かう人物が表されている。対岸とは彼岸であり、死の島である。誰しもが必ず帰る場所である。上空に淡く表された蜂は、映画『パンズ・ラビリンス(El laberinto del fauno)』で主人公の少女オフェリアを黄泉へと導くナナフシではないか。生の儚さを訴える、メメント・モリ(memento mori)の一種である。

《俑》(765mm×540mm)には、3体の人物俑を右手前に、点された蝋燭が立つ台が左手前に、台の背後に縦格子が配される。マントを被った人物俑はスキットルのような形で3体が話し合うように寄り添う。台上の2本の蝋燭は黄緑の光を放つ。格子の外側にはびっしりとピンク、青、緑などの蝶が群がる。俑が墳墓の副葬品であり、死者の世界を表すのだろう。燃える蝋燭を現世とすれば、縦格子で仕切られた蝶の世界は、現世とは異なる世界となる。荘周が見る胡蝶となる夢の譬えを思い出さずにはいない。

 胡蝶と荘周の間に「区分がないからではない」。その反対に、「その区分が定まっているから」、その区別された世界において、胡蝶としてあるいは荘周として「自ら楽しみ」、「心ゆく」ことができる。この読解は、これまで見てきた、区分を無みする読解の対極にある
 郭象は、1つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできない、と主張する。「まさにこれである時には、あれは知らない」からである。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹される。この主張は、1つの世界に2つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて無差別だといことではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態である。ここでは、「物化」は、1つの世界の中での事物の変化にとどまらず、この世界そのものもまた変化することでもある。
 それを念頭に置くと、胡蝶の夢は、荘周が胡蝶という他なる物に変化したということ以上に、それまで予想だにしなかった、胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受するという意味になる。それは、何か「真実在」なる「道」の高みに上り、万物の区別を無みする意味での「物化」という変化を楽しむということではない。
 (略)つまり、人間の自由とは、与えられた境遇をただひたすら「逞しく肯定してゆく」というよりも、今現在のあり方(ある1つの区別されたあり方)を絶対的に肯定することによって、そのあり方から自由になり、新しい存在様式(これもまた区別されたある1つのあり方でしかない)と新しい世界のあり方に逢着することにある。(中島隆博荘子の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2022/p.171-173)

複数の版はそれぞれ「絶対的に自己充足的に存在」する。1枚の紙に刷り出されても、それぞれの版によるイメージが融合してしまう訳ではない。複数のイメージ(版)の存在を区分・認識できるからである。異なる世界の重ね併せによる変化こそが捉えられる。ならば「胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受」できると言えまいか。
《月夜(ツクヨ)の鳥》(495mm×345mm)には、香水瓶のような透明のガラス瓶と鸚哥、それに瓶の蓋の辺りに葉叢のようなものが表されている。鸚哥は流水模様の描かれたガラス壜の底にいて、閉じられた瓶の口を見上げているように見える。ところで、原田マハの小説『楽園のカンヴァス』では、主人公である美術館監視員・早川織絵が日々目にしていたピカソの《鳥籠》の鳥が実は籠に囚われた鳥ではなく鳥籠の向こうの窓辺に飛来した鳥であることに気付く。《月夜の鳥》の鸚哥もまた、ガラス壜の中に閉じ込められている訳では無く、ガラス瓶にぴたりと接しているようだ。実際。尾羽が瓶から外れており、瓶の内側にはいないことが分かる。尤も、話はそう単純ではない。瓶の外では、空は暗雲のような葉叢に覆われている。むしろガラス瓶の内側の方が明るいのである。実際、瓶の蓋の摘まみは球形に近く、満月を連想させるのだ。「月夜の鳥」の鳥であるためには、やはりガラス壜の中にあるべきなのである。鸚哥は瓶の中の世界を「絶対的に肯定することによって」、瓶の内なる世界にこそ瓶の外の世界よりも遙かに広い世界が拡がることに気付くのではなかろうか。早川織絵同様の発想の転換が鸚哥を、そして鑑賞者を「新しい存在様式」と「新しい世界のあり方」へと導くのである。