映画『ANORA アノーラ』を鑑賞しての備忘録
2024年製作のアメリカ映画。
139分。
監督・脚本・編集は、ショーン・ベイカー(Sean Baker)。
撮影は、ドリュー・ダニエルズ(Drew Daniels)。
美術は、スティーブン・フェルプス(Stephen Phelps)。
衣装は、ジョスリン・ピアース(Jocelyn Pierce)。
音楽は、ジョセフ・カパゥボ(Joseph Capalbo)。
原題は、"Anora"。
マンハッタン、ヘルズキッチンにあるストリップ・クラブ「ヘッドクォーターズ」。下着姿、あるいはトップレスの女性たちがソファに腰掛けた男性客に密着するように音楽に合わせ煽情的に体を動かしている。
アニーことアノーラ・ミキーヴァ(Mikey Madison)がフロアの男性客に声をかけて廻る。アニーです。お会いできて嬉しいわ。元気? 客が応じると、ソファに案内する。客の前で上着を脱ぎ、下着姿になって膝の上に跨がり、音楽に合わせて体をくねらせる。初老の男はアニーに尋ねる。家族は君がしていることを知ってるのかい? ええ。大丈夫なのか? 大丈夫。家族はあなたがここにいるって知ってるの? 知らなきゃいいけどな。男は笑う。
ダイモンド(Lindsey Normington)がアニーに声をかける。この前ロバートが来たときダンスを頼まれた? ええ。彼に踊ったの? ええ。そうなの。そうよ。ダイモンドは不満な表情を浮かべ立ち去った。何なの。
店の外で煙草を吸いながらアニーがルル(Luna Sofía Miranda)に応対したばかりの客について愚痴る。気味の悪い奴だった。メチャクチャ気味悪い。シリアルキラー的な? インド系のジェフリー・ダーマーみたい。ずっと私の脚に擦りつけてきて…。私は18の娘に似てるって言われてさ。5回も求めてきた。確かに気持ち悪い。まあ金払ってくれたからいいけど。あれは何? 蝶? 話題はお互いのタトゥーに。そう、蝶だよ。洒落てるね。そうでしょ。私なんてドルマークだよ、本物の娼婦みたい。欲しいものがはっきりしていいじゃない。
触れてくれて構わないのよ。アニーが客の膝の上で腰を振りながら言う。ベルトを作ってあげよう。ベルトを作って。客が紙幣を下着の紐の間に挟む。
お金持ってないの? ATMに行こうよ。そんなに散財はできないんだ。いいから、ATMでお金下ろそう。アニーが客の手を引いてATMへ向かう。
更衣室。トイレから戻って、ファスナー閉めてなかったんだ。そんな奴に音楽なんて任せらんないでしょ。アニーがルルに愚痴る。奴は40だよ。文字通りジジイ。そこへジミー(Vincent Radwinsky)がやって来る。ロシア語話せる娘を欲しがるガキがいる。女の子たちと話し合ってるんだけどさ、あんたの従弟が私らに敬意を示してくれなきゃチップは渡さないよ。分かった、俺が言っておく。プレイリストを渡したのにまともに取り合ってくんないの。頼むよ、来てくれ。食事中だもん。タッパーに入れておいて。ドーン(Brittney Rodriguez)もジミーとともにアニーに接客を促す。上客なんだよ。時は金なりでしょ。
ジミーがアニーを伴って2人連れのロシア人のもとへ向かう。美しいアニーを連れてきた。今夜必要なものは彼女が提供してくれる。アニー、頼んだぞ。綺麗だ。ロシア人の若者(Mark Eydelshteyn)が目を見張る。イヴァンだよ。ヴァーニャって呼んで。ヴァーニャ、会えて嬉しい。親友のトム(Anton Bitter)。よろしく、アニーです。ロシア語話すんだって? ロシア語は話さない、分かるけど。どういうこと? ロシア語は話せるけど、話したくないだけ。でも、あなたはロシア語で話してくれて構わないわ。分かるから。僕は分からないよ。Привет, иван. Меня зовут Ани. Вот как я говорю по-русски. Вы все еще хотите, чтобы я говорил по-русски? もちろん! 私のロシア語は酷いでしょ。巻き舌も無理だもん。君のロシア語は下手じゃないよ。すごいよ。本当に? うん。ま、そうは思わないけど、お礼を言っとくわ。どうしてロシア語知ってるの? お祖母ちゃんが英語を話さなかったから。なるほど。私の話はこれくらいにしてよ。あなたたちはロシア出身なの? 僕はそう、彼はこっちに住んでるんだ。休暇か何かで? まあ休暇って言えば休暇かな。ロシア語で話していい? 僕の英語はひどいから。そんなことない、あなたの英語は素晴らしいわ。Вот почему я думаю, что нам следует выпить за наши чертовы акценты бутылкой. VIPルームに行きたい? いいね、行きたいよ。
マンハッタン、ヘルズキッチンにあるストリップ・クラブ「ヘッドクォーターズ」。アニーことアノーラ・ミキーヴァ(Mikey Madison)は売れっ娘のストリッパー。客がアニーに乗り換えられてしまったダイモンド(Lindsey Normington)のように妬まれることはあるものの、マネージャーのジミー(Vincent Radwinsky)に待遇改善を遠慮無く突き付ける気っ風の良いアニーに同僚たちの評判は悪くない。ある晩ジミーからアニーがロシア語を話せることを見込んでロシア人客の対応を頼まれた。容姿端麗で気立ての良いイヴァン・ザハローヴァ(Mark Eydelshteyn)にアニーは特別サーヴィスすると、イヴァンはすっかりのぼせ上がり、チップを弾む。明け方ブライトンビーチの自宅に戻り一服していると、イヴァンから連絡があり自宅に誘われた。ブルックリンにあるイヴァンの住まいは湾を見晴らす途轍もない豪邸だった。イヴァンは父がオリガルヒのニコライ・ザハローヴァ(Aleksei Serebryakov)だと打ち明けた。イヴァンから新年のカウントダウンパーティーに誘われたアニーはルル(Luna Sofía Miranda)を誘って参加する。イヴァンはアニーと過ごすうちにますます惚れ込み、ロシアに戻る前の1週間をともに過ごして欲しいと強請る。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
ストリッパーのアニーはオリガルヒの道楽息子イヴァンに見初められ、ロシアで家業を継ぐ前の1週間をともに過ごして欲しいと頼まれる。ラスベガスで羽目を外し豪遊している際、イヴァンはアニーに結婚を申し込む。揶揄わないでと相手にしないアニーだがイヴァンに本気だと言われて承諾する。すぐさま結婚式場に駆け込み、手っ取り早く式を挙げる。
イヴァンのお目付役である司祭のトロス(Karren Karagulian)は、イヴァンの母ガリーナ・ザハローヴァ(Darya Ekamasova)から息子が娼婦と結婚したと聞いたと電話で激昂される。トロスは真偽を確かめるため弟ガルニク(Vache Tovmasyan)と用心棒のイゴール(Yura Borisov)を屋敷に派遣したところ、婚姻はは事実であった。トロスも屋敷に急行し、失踪したイヴァンを捜索するとともに、アニーに結婚を無効とする手続に協力するよう要求する。アニーはガルニクの鼻の骨を折るなど激しく抵抗するが遂に断念し、むしろトロスらとイヴァンを見つけ出し、イヴァンに両親の許可を説得してもらうことに一縷の望みを託す。
イヴァンは優しいが幼い。後先を考えず欲望のままに突っ走ってしまう軽さは、階段を駆け上がったり、ベッドに回転して飛び込んだりする挙措に表される。また、アニーと水煙草、ヴィデオゲームとを取っ替え引っ替え楽しむイヴァンにとって、アニーもまた煙草やゲーム同様、快楽を提供してくれる玩具に過ぎない。
アニーは自らがストリッパーであり、エスコート嬢であり、すぐに自分をほったらかしにしてゲームに興じてしまうイヴァンのプロポーズが本気だとは思っていない。それでもイヴァンが自分を本気で愛してくれていたらという儚い望みを、結婚証明書という紙切れに託している。両親を説得して、真にお互いを添い遂げる相手になる可能性はゼロではないと。それでもイヴァンがアニーを置いて逃亡した時点で、幻滅は既定路線であるのだが。
(以下では、結末に関しても言及する。)
アニーはトロスに雇われている坊主頭で強面の用心棒イゴールを警戒し、暴れる。イゴールはやむを得ずアニーを拘束する。アニーはイゴールが暴力を振い、レイプしようとしたと訴える。だがイゴールは決してアニーに対して不必要な暴力を振おうとはしていなかった。常にアニーに敬意を払った行動をしていた。アニーは坊主頭で強面の用心棒に偏見を抱いていたのだ。それはストリッパーでありエスコート嬢でもある自らに向けられる偏見の反映である。
トロスの指示でアニーを自宅まで送り届けるよう頼まれたイゴールは、荷物の引き取りのため立ち寄ったイヴァンの家でアニーと一晩を過ごすことになったが、アニーに手を出すどころか指1本触れることも無かった。
雪の降りしきる中、イゴールの車はアニーの自宅に到着した。イゴールはトロスに取り上げられた結婚指輪を密かに取り戻していた。内緒だと指輪をアニーに渡すと、何も言わず車から荷物を降ろし部屋の前まで運び上げた。1人車内に残されたアニーは、ラスベガスで結婚の無効手続を行った際、イゴールはイヴァンに対しアニーに謝罪を要求してくれたこと(ガリーナが言下に否定し、イヴァンも謝ることは無かった)を思い出したろう。併せてマフラーを差し出してくれたことや、ジャケットで体を覆ってくれたことも。ワイパーが降り続く雪を払うとき、アニーのイゴールに対する偏見もまた拭い去られていく。
アニーは上着を脱ぎ、車内に戻ったイゴールの膝の上に跨がる。つい性的なサーヴィスをしてしまうアニー。そんな自分に腹を立てたアニーはイゴールに八つ当たりして叩いてしまう。イゴールはそんなアニーを制止して抱き締める。イヴァンの屋敷でアニーを取り押さえた時とまるで同じ状況が出来する。イゴールのアニーに対する態度は、出逢った最初から何1つ変わっていなかった。その気付きは、闇に沈んでいたアニーに光(アノーラ)をもたらすだろう。