可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 原田裕規個展『夢と影』

展覧会 原田裕規個展『夢と影』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2025年2月1日~3月1日。

ハワイの日系アメリカ人をモデルに制作したCGの人物が日系アメリカ人の声を復唱した作家の声に合わせて口を動かす映像作品「シャドーイング」シリーズや、2023年に大規模な山火事が発生したハワイ・マウイ島のラハイナの景観をモティーフにしたCG作品「ホームポート」シリーズなどで構成される、原田裕規の個展。

《光庭》は、茫洋とした海に面した広間のCGによるイメージである。淡いピンク色で統一された床、壁、円柱だけのガランとした空間(empty space)はカーテンが開け放たれ、海に向けて1脚の椅子が置かれている。壁には絵画が画面を見せないように立て掛けてある。ピーター・ブルック(Peter Brook)の演劇論を想起させるかのような海に面した舞台では、光すなわち神に奉納される演劇が上演されるのであろう。

 すこし以前(2019年)、私は「野生〝能〟」というふうがわりな能舞台にかかわっていたことがありました。私が脚本を書き出演もした、「能」を意識した演劇作品です。(略)
 舞台監督によれば、元来、演劇とは神事でもあったという。芝居は神聖な儀式であって、みせるお相手は神だまだった。だから本来なら人間はみせてもらえないのだけれど、どうしてもみせたいというばあいには、はりめぐらされた幕と幕のあいだから特別にそっとのぞきみることがゆるされた。人間は神への供物としての芝居のおこぼれを頂戴するのがせいぜいだった。つまり元来芝居をみせる相手は人間ではなかったのだから、お客がこなくてもなんの問題もないのだと。
 (略)
 「お客さまは神さまです」、あれを私はこれまで、御来場のお客さまは神さまのように大事におもてなしすべしという、エンターテイナーのサービス精神、心得のことであると解釈しておりました。しかしそうではないのかもしれません。
 舞台をごらんになるのは〝人間さま〟ではなく、本物の〝神さま〟なんです。だとすれば人間のお客さんなどいてもいなくてもたいした問題ではない。ひとがくるのかこないかに関係なく、舞台は粛々とつづけられなければならない。(森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』光文社〔光文社新書〕/2024/p.158-160)

八百万の神が集まるという出雲の枕詞は「八雲立つ」。松江に一時在住したラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)は小泉八雲を名乗った。《シャドーイング
(ケンジ)》では、CGで制作されたハワイの日系アメリカ人ケンジが、ワイアラエ・ドライヴインに現われる顔のない女について語る。小泉八雲の「貉」に登場するのっぺらぼうに通じる話で、ハワイに日本人が移住した際、妖怪もまた海を越えたのだと言う。そして、人は化けて、国も人種も乗り越えるものだと。
民衆(crowd)の想像力をまとめた八雲(cloud)自身、アイルランド、フランス、アメリカ、西インド諸島、日本と諸国を放浪した存在であった。言わば媒体(medium)であり、霊媒(mediums)である。媒体・霊媒であるためには空間が必要であるという意味では、八雲自身がのっぺらぼうであったとも言えるのではないか。のっぺらぼうとは、ガランとした空間(empty space)である。そこを横切る存在(演者)はもはや生者でなくとも構わない。死者であっても、妖怪であっても。《シャドーイング(ダン)》の語り手ダンは、祖父から聞いた、山で迷ったときに道を示してくれた犬クロや提灯を提げていつも見守ってくれる豆狸マメダの話を――父からマメダの正体が獣除けだと告げられてもなお――心の支えとしていると言う。月影という言葉に示される通り、影とは光である。ならば実体の無い影の存在であるマメダもまた光と言って差し支えあるまい。実体の無い影、言わば幽霊を行き先を照らす光として捉え生き延びる、民衆の想像力の力が認められる。

 ところで、ここでみなさんに「ghostly(霊的)」という言葉について語っておきたいと思う。この言葉は、おそらく想像以上に意味深長な言葉なのである。古代英語には、「スピリチュアル(霊の)」あるいは「スーパーナチュラル(超自然的な)」に当たる語彙がなかった。この2語は、ご存じのように、英語ではなくラテン語起源である。今日、宗教上、「ディヴァイン(神の)」、「ホーリー(聖なる)」、「ミラキュラス(奇跡的な)」と称されるものはすべて、古代アングロ・サクソン人にとっては、「ゴーストリー(霊的)」の1語をもって充分に説明されるものであった。彼らは、人間のスピリット(霊)やソウル(霊魂)について語る代わりに、霊的なものについて語ったのである。そして、宗教的な知識に関わるものをすべてゴーストリー(霊的)と名付けたのである。
 現在、カトリックの告解の際に唱えられる決まり文句は、およそ2千年の間、ほとんど変化していない。そのとき、神父は「ゴーストリー・ファーザー(霊なる父よ」と呼びかけられる。それは、神父の仕事が、父親として人々のゴースト(霊)ないしソウル(魂)の世話をすることにあるからである。懺悔をおこなう者は、神父に語りかける際に、実際「わがゴースト(霊)なる父よ」と唱える。それゆえ、このghostlyという形容詞には、大きな意味が付与されていることが理解できるのである。
 「霊的な」という言葉は、超自然に関わるあらゆるものを意味している。キリスト教徒にとっては、それは神自身をさえ意味しているのである。というのは、生命の付与者は、英語ではつねに「ホーリー・ゴースト(聖霊)」と呼ばれているからである。
 もしわれわれが、進化論的な考え方にしたがうなら、西洋諸国が今日奉じている神という観念は、じつは幽霊の存在を信じた原初的信仰から発展してきたものであろう。その教義を受け入れるなら、ghostという語を至高者たる神に対して用いたとしても、なんら非難される筋合はないといえよう。むしろ反対に、この語をそのように用いることによって、そこに大いに厳粛さも加わり、この世ならぬ感じが漂ってくると思われるのである。(ラフカディオ・ハーン〔池田雅之〕『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』KADOKAWA〔角川文庫〕/2019/p.81-82)

作家が一般家庭から廃棄された写真を24時間に亘りひたすら見続けるパフォーマンスを記録した映像作品《One Million Seeings》は、人々が撮影した大量のイメージから、眼差しを枠付ける思考を、延いては民衆の想像力を浮かび上がらせる作業とは言えまいか。あるいは、ハワイ・マウイ島のラハイナの未来の景観を表したCG作品「ホームポート」は、地質学的なスケールを導入することにより近視眼的な思考を神話的な想像力(「恵比寿映像祭2025」出展の劉玗《If Narratives Become the Great Flood》 (2020)参照)へと変換する試みと解される。作家は、民衆の集合的な夢、すなわち神=幽霊の影を追うのだ。