展覧会『no man's land』を鑑賞しての備忘録。
SOM GALLERYにて、2025年2月14日~3月9日。
ハンナ・アレント(Hannah Arendt)が公的領域と私的領域のいずれにも属さない中間的な場を指して用いた"no man's land"という「閾」を切り口に、統治手段としての都市空間と個人との関係性について、美術作品を通じて考察する、侯米蘭(侯米兰/Hou Milan)による企画。崔潔(崔洁/Cui Jie)の公共彫刻や椅子をモティーフとしたドローイング、、Haburiのゲルなどを編み物で表した作品、中村直人の住居の内外の景観を表現する多様な作品、寺本明志のパティオ(中庭)と題した屋内と屋外とが渾然一体となった絵画が取り上げられている。
〔引用者註補記:ハンナ・アレントの『人間の条件』における〕「無人地帯」は"no man's land"の直訳である。でも、"no man's land"は「無人地帯」ではない。(略)それは「どちらにも属さない場所」あるいは「どちらともつかない曖昧な場所」という意味である。つまり公的領域と私的領域の中間にあって、その2つの領域の関係を「守り、保護し」そして「同時に双方を互いに分け隔てていた」場所が"no man's land"である。空間そのものが境界なのである。(山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社〔講談社選書メチエ〕/2015/p.17)
"no man's land"は古代ギリシアのポリスを踏まえた観念である。ポリスの正式な市民は家父長だけであり、家父長のための家の領域が「アンドロニティス」である。それに対して、日常の生命維持のために女性や奴隷が活動する場「ギュナイコニティス」は公的領域から排除されていた。ポリスの公的領域と「ギュナイコニティス」との境界領域が「アンドロニティス」という"no man's land"であった。(山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社〔講談社選書メチエ〕/2015/p.18~22参照)。
実は、この"no man's land"のような空間は古代ギリシアにのみ固有の空間ではない。居住空間、都市空間について考える時の、普遍的な空間概念なのである。私たちはこの"no man's land"のような空間を「閾」と呼んでいる(「閾」は敷居である。空間的な拡がりをもった敷居という意味である)。
「閾」とは2つの異なる領域の間にあって、その相互の関係を結びつけ、あるいは切り離すための空間である。都市という公的領域と家族という私的領域の中間にあって、その2つの領域を相互に結びつけ、あるいは切り離すための建築的な装置が「閾」である。(略)
(略)
この「閾」という建築空間を単に家の内側の機能として見ようとすると、つまり「閾」を1つの部屋として機能的に解釈しおうとすると「各室の機能は、厳密には決まっていない。壁際に低い台のある部屋が、アンドロンと呼ばれる主食堂兼娯楽室である」というスピロ・コストフの解釈のように、単なる多目的ルーム、もしくは接客のための部屋であるかように見えてしまう。あるいは、「男の領域」、「女の領域」という空間の相互隔離は、家の内部での男と女の問題として、性差による差別という解釈に回収されてしまうのではないかと思う。それは、「家」、今われわれが住んでいる「住宅」までをも含めて、それを徹底して私的領域であると私たちが思い込んでいるからである。家という建築空間の問題はその内部の問題であると私たちは思っている。近代の建築家たちはそう思ってきた。そのような前提に立っている限り、それはその外側の問題、都市との関係の問題には決してつながっていかない。「家」という建築空間は「閾」を含んで「家」なのである。家という私的領域の中に「閾」という公的領域が含まれている。単に私的領域の内側だけの問題ではない。私的領域の問題はその内側の問題ではなく、公的領域との関係なのである。(山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社〔講談社選書メチエ〕/2015/p.23~26)。
崔潔の《Happy Family》(296mm×210mm)は方眼のルーズリーフに子供を抱く母親ら家族をテーマにした彫刻を色鉛筆で写し取った作品。公共空間に設置された家族という点で、「閾」を反転して表現している。同じく崔潔の《Sabrina chair and Contessa Ⅱ Chair》(210mm×296mm)はそれぞれ緑とオレンジの2脚の椅子とデスクトップPC、デスクスタンドなどを、巨大な目を背景に表した作品。PCなどによりオンラインに接続すれば家の中に常に他者の目に象徴される公的領域は容易に入り込む。ジョージ・オーウェル(George Orwell)の『1984(Nineteen Eighty-Four)』のテレスクリーンの現実化とも言える。
Haburiの《Memory Vessel 2》は、羊毛で編んだゲル(гэр)である。宙空に吊ってあるのは定住的(ヘスティア的)ではなく移住的(ヘルメス的)なイメージを生み出す狙いなのだろう。編む動作及びその成果物である編み物(textile)は文章(text)や時間のイメージを引き寄せ、その意味では題名通り記憶に繋がる。また建築物を記憶装置として利用する点では記憶術に通じよう。《Memory Vessel 2》が下側にも延長されたような《Memory Vessel 4》や塔のような細長いゲルと組み合わされたような《Memory Vessel 3》は柔軟な可変性を表すのだろう。人や企業が国境を越え、移動先に適応した形に変異して活動する姿を表す。言語であればピジンとなり、クレオールとなるだろう。
中村直人の《contiguous verandas Ⅱ》や《contiguous verandas Ⅱ》は、日本の集合住宅のベランダから撮影されたモノクロームの写真に、それを目にした海外の人たちの感想を併せて提示する作品。人口の過密な都市、とりわけ集合住宅において「閾」は機能しているだろうか。《Chair》(650mm×450mm×900mm)は円形の布と、そこで半ば解体され、沈んでいくような椅子、さらには椅子に掛けられた布や書籍などで構成される。椅子とは権力の座ではないか。ベニヤ板で覆われた出窓の模型の中に日用品が浮き沈みを繰り返すCG映像が上映される《Bay window》(700mm×400mm×320)と併せ見る時、椅子の渉猟する権力は織物(textile)が象徴する人々のネットワークの中に沈んでいく。否、あるいは逆に浮かび上がってくるのかもしれない。昨今、歪な形をした玉座がインターネットで繋がる人々の間から続々と立ち現われつつあるではないか。
寺本明志の《Patio―机上を描く人―》(1303mm×1620mm)には、サボテンの生える庭で椅子に腰掛けテーブルに並べた器を描く人物が描かれる。建物の中にもサボテンがある。屋内と屋外とは曖昧である。なおかつスケッチする人物の下半身はサボテンの棘のように表されている。内と外だけでなく、主体と客体もまた容易に反転する。《Patio―洗濯する人―》(333mm×242mm)では洗ったシーツを洗濯紐に干す人が描かれる。背後の壁には敷布が掛けられ、また脇からは樹木が葉を繁らせ、あるいは小さな水の流れがある。壁の向こう側には高い屋根がかかり、中にまで樹木が枝を伸ばす。様々なものが跨ぎ越して拡がり、流れていく。空には歪な雲(cloud)が浮かんでいる。人々(crowd)もまた容易に境界を越えて行く。