展覧会『パク・ミンジュン「妙」』を鑑賞しての備忘録
東京画廊+BTAPにて、2025年3月1日~4月5日。
人と動物、あるいは動物同士の組み合わさったキメラ的なキャラクターを写実的に描いた油彩画で構成される、パク・ミンジュン(박민준/朴民俊)の個展。緑色で統一された空間は、作品に纏わる文章を記載した翡翠色の小冊子に因んでおり、作家の物語に没入する感覚を味わわせる。
作家によれば、「妙」とは、想像による形と現実の形との差異に対する感情である。差異が過度に大きくなると奇怪に傾き、ぎこちなさから不快感を生むことにもなってしまう。巧みさによって適度な範囲に差異を抑え込めば、「妙」の感覚が味わえるという。
《il mondo》(770mm×620mm)は、切り株に腰掛ける人物を描いた作品。エドゥアール・マネ(Édouard Manet)の《笛を吹く少年(Le Joueur de fifre)》のような抽象的な空間の下部から切り株が覗き、黒い帽子と赤く大きな鼻の付いた仮面を被り、マフラーを巻き、ゆったりした白いシャツの上から短い茶色のベスト、茶のパンツを穿いた小柄な人物が坐っている。タイトルがイタリア語であるために、カルロ・コッローディ(Carlo Collodi)の『ピノッキオの冒険(Le avventure di Pinocchio)』のピノッキオを彷彿とさせる。左足には赤い球の付いたサンダルを履いているが、右足は脱げてしまったのか裸足だ。手の指先には鋭い爪が伸び、左手が切り株を押えている。作家は、「世の中の最も高いところにたどり着いて眺める風景はどんな姿なのだろうか。最も完璧な世界、しかしどこまでもはかなくそして虚しい、誰もいない静かな世界の頂上。」とのコメントを《il mondo》に寄せている。「最も完璧な世界」がその状態を保とうとすれば変化は許されない。模糊とした虚無を前に、靴が脱げ、手指の爪が切り株に食い込むのは、それ以上先へ進むことも後へ引き返すこともできない、終焉を象徴するのだろう。
《妙(Ignoramus et ignorabimus、私たちは知らない。永遠にわからないだろう。)》(1037mm×1037mm)は、ラテン語"IGNORAMUS ET IGNORABIMUS"を刻んだ石段の上に坐る2人の人物が、ワニのような頭部を持つ鷲と、2つの犬の頭部を持つアルパカ(?)とともに正面を向いて坐る姿が描かれる。向かって左側に坐る、橙、紫、黄などの絹の帯を垂らし白い襟飾りを纏う人物は、長い頚を持ち、頭部か3つの触覚を伸ばしている。その前に鷲の体を持つワニが控える。右側の人物は青と黄の絹の帯を垂らした衣服を纏う。やはり長い頚を持ち、額に3つめの目がある。手前にはアルパカの体を持つ犬が寝そべり、あるいは首を擡げる。3つの目を持つ人物と双頭の犬との組み合わせの《妙相(左)》(1527mm×928mm)と、触覚の人物とワニ鷲とを組み合わせた《妙相(右)》(1527mm×928mm)とが《妙》の左右に配され、三幅対のような構成とされている。「歴史は残そうとする者の思い通りに残され、それを単純に信じる者が多い側が市に実になる」ため、描かれた2人の人物と2匹の獣は想像上の存在だが、「十分な時間さえ備われば実際のものになることもある」。世界は混沌であり「何も確信できず、断定することもでき」ず、「ただ心の赴くままに信じればそれが答えにな」ってしまう。ゆえに真実は何かを「私たちは知らない」し、「永遠に分からないだろう」。
「世界(il mondo)」や、「私たちは知らない(ignoramus)」から連想されるのは世界地図である。かつて世界地図は想像力で埋め尽くされた。
あなたがもしプトレマイオスの時代(2世紀)のアレクサンドリアの図書館から――千年以上を経て――いきなりここへやってきたなら、〔引用者補記:1290年に作成された〕〈マッパ・ムンディ〉を見て驚いたに違いない。座標やグリッド線、経線や緯線といった科学的地図製作法はどこへ行ったのか? その代わりにあるのは道徳を説く絵画と呼ぶべきしろもので、この時代の不安と妄想とを表現した世界地図だった。エルサレムが中央に据えられ、両端には天国と煉獄があり、遠く離れた場所には伝説の動物や怪物たちが棲んでいる。
だが、これこそこの地図が意図したものなのだ。このマッパ(中世では〝マッパ〟というのは、地図よりもむしろ布やナプキンを意味する言葉だった)には、神学的に崇高な目的があった――教養のない人々をキリスト教徒にふさわしい人生へと導く案内役になることである。そこでは、現世の地理学と来世のイデオロギーとが、ためらいもなく混在していた。地図の最上部には、この世の終わりを意味する〝最後の審判〟の様子が描かれている。きりすとと天使たちが私たちを天国へと手招きする一方で、悪魔とドラゴンが別の恐ろしい場所へ人々を連れていこうとしている。
(略)
近代的な見方をすれば、この地図は至高のパズルでもある。ものが本来あるべき場所にない。私たちが北とみなすものが左にあり、東が上にある。大洋はひとつもないが、その代わり、地図そのものが水に囲まれ、奇妙な形をした数多の生き物が、あちこちに島のように浮かんでいる。
(略)
世界地図の多くがそうであるように、ここでもまた、もうひとつの物語が展開している。気味の悪いものが棲んでいそうな未知で未開の土地は、鑑賞者に、文明や秩序や規律がいかにすばらしいかというメッセージを送っていた。当時の人々にとって、それは〝示された道を歩め〟というキリスト教の教えのひとつでもあった。だが、この地図を見た現代人が最も魅了されるのは、その奇怪さである。たとえば神話上の生き物〝スキアポデス〟(肥大した一本脚をかざして、太陽から身を守る男)に代表される、数々の超人的でコミカルな創造物に目を奪われるに違いない。(サイモン・ガーフィールド〔黒川由美〕『オン・ザ・マップ 地図と人類の物語』太田出版/2014/p.35-40)
科学的な世界観は、まだ分からない(nondum novimus)部分を空白とし、スキアポデスのような異形の存在たちは世界地図から追放された。
光と闇――機智と未知――に冠しては、さらに奇妙な話がある。アフリカ特有の現象ではあるが、かつては多くの野生動物をはじめ、生命と活動性に満ちあふれていた地図に、西洋人は一時期、意図的に空白地帯を作っていたのだ。
オランダの地図制作者ヨドクス・ホンディウスが1606年に発表した地図には、ゾウやライオン、ラクダがいる楽しそうなサファリが描かれ、1670年のジョン・オーグルビーの地図では、ゾウやサイのほかに、ドードーらしきものが、エチオピアにのさばっていた。
しかし、18世紀前半になると、まったく状況が変わった。アフリカは空白だったのだ。動物たちは姿を消し、かつていた生物も、今では裸の先住民とともにカルトゥーシュの囲みに閉じ込められてしまった。それも、再審の地理的発見や新たな地形に場所を譲ったためではなく、その逆である。(略)
(略)
その地図〔引用者註:1600年代初頭にオランダのウィレム・ブラウが製作した〈アフリカ新地図〉〕と、1世紀以上あとの1749年に作られた代表的なアフリカ地図を見比べてみよう。こちらはフランスの著名な地図製作者ジャン・バティスト・ブルギニョン・ダンヴィルが製作した地図だ。(略)アフリカ南部を描いた彼の地図の徹底した誠実さは、注目に値する。ダンヴィルは風聞や剽窃を拒み、描き入れるすべての記号に確たる根拠を求めた。川なり開拓地なりが存在すると信じられているが確証はない場合、彼は典拠が不明である旨をきっちり記載した。
(略)
17世紀後半から18世紀にかけ、ヨーロッパで啓蒙運動が盛んになった時代に、そうした空白地帯が知的好奇心に火をつけ、多くの人々は空白をこのまま放置してよいとは考えなかった。(サイモン・ガーフィールド〔黒川由美〕『オン・ザ・マップ 地図と人類の物語』太田出版/2014/p.196-198)
ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)の『闇の奥(Heart of Darkness)』の語り手である船乗りマーロウは次のように述懐する。
ところで俺は、子供のころ、地図がとても好きだった。南アメリカ、アフリカ、オーストラリア。何時間眺めても飽きなかった。輝かしい探検を空想したものだ。あの当時は地上に空白地帯がたくさんあったが、とくに気をそそる場所があると(というか、どの場所もそうだったんだが)、指でそこを押さえて、大人になったらここへ行くぞと呟いたものだった。そう言えば北極もそうだったな。あそこはまだ行ってないし、今はもう行くつもりがないがね。魅力が失せたというのかな。北極を別にすれば、やっぱり赤道の近くが多かった。北半球、南半球、緯度もさまざま。そのうちのいくつかには実際に行ったが……まあ、その話はさて措いて。ともかくそういう場所の中に――一番大きな、いわばとびきりの空白地帯があって――俺は猛烈に憧れたわけなんだ。
もちろん、俺が出かけたころにはもう空白地帯じゃなくなっていた。その後地図には河や湖や地名が書き込まれていった。そこはもう少年を華麗な夢想に誘う、心躍る神秘に満ちた真っ白な部分ではなくなっていた。暗黒の地になっていたんだ。(ジョゼフ・コンラッド〔黒原敏行〕『闇の奥』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2009/p.21-22)
技術の発達は、地図から空白を消し去った。
人工衛星を使った観測技術の発達により、もはや南極大陸はすみずみまで地図化されている。人が実際に探検した地域はまだそれほど多くはないが、人工衛星は全域を記録し、氷に閉ざされた地域にもデジタル座標が割り当てられているのだ。(略)
地図はもはや空白ではなくなった。(サイモン・ガーフィールド〔黒川由美〕『オン・ザ・マップ 地図と人類の物語』太田出版/2014/p.255)
空白は無くなったが、情報の洪水が押し寄せ、世界は混沌とした姿を見せる。
《重なり合った道の上で道を探すのは骨が折れる》(1574mm×2175mmの画面に、キメラたちを個別に描いた画面(各632mm×632mm)4枚との組作品)には、「妙」と呼ばれる存在が翡翠色のリボン撒き散らし、ネコの頭を持つカメや複数のサメの頭部を持つヘビ、トラとネズミのキメラなどが右往左往する姿が描かれる。どんなに道が増え、錯綜しようとも、誰しもが思う道を辿れば良い。だが自分の選んだ道が遠回りだったらとの不安に付き纏われる。そのとき、「まるで極点に置かれて方向を見失ったコンパスのようにぐるぐると回る」「2つのくちばしををもつペリカンの首」の指し示す道を選択してしまうことになる。私たちはいつも自由(に伴う責任)から逃げ出してしまうからだ。