映画『ケナは韓国が嫌いで』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の韓国映画。
107分。
監督・脚本は、チャン・ゴンジェ(장건재)。
原作は、チャン・ガンミョン(장강명)の小説『韓国が嫌いで(한국이 싫어서)』。
撮影は、ナ・ヒソク(나희석)。
美術は、キム・ソナ(김선하)。
衣装は、ユ・ゴンダン(유겸단)。
編集は、イ・ヨンジョン(이연정)。
音楽は、クォン・ヒョンジョン(권현정)。
原題は、"한국이 싫어서"。
ケナ(고아성)が助手席に坐り、シミョン(김우겸)がハンドルを握る。ケナの父(이상희)、母(오민애)、妹ミナ(김뜻돌)は後部座席に乗っている。
あの日、シミョンが私をインチョン空港まで連れて行ってくれた。私たちは空港で正式に別れた。
空港のロビー。ケナが青いスーツケースから入りきらない荷物を取り出す。母親はコチュジャンのような馴染みの調味料を外さないように言い、本のような重いものは置いて行けという。父親が受け取った本をシミョンが代わりに持つ。1冊は『寒がり屋のペンギン』という青い表紙の絵本だった。ケナは何とかスーツケースを閉じることができた。
ケナはシミョンと家族と離れた場所で別れの挨拶をする。待ってるから。いいの。待たないで、シニョン。
いよいよ出発の時間となる。皆がケナを見送る。辛くなったら帰って来なさいよ。ケチケチして栄養を取らないなんて駄目よ。母親にはケナにいくらでも伝えることがある。
何故韓国を離れるのか。簡単に言えば、韓国が嫌いだから。別の言い方をすれば、韓国ではもう生きていけないから。非難しないで欲しい。生まれた国を嫌いになることだってある。
1年前の冬。未明の通りをケナがバス停に向かう。バスが出発してしまった。ケナが慌てて追いかけて何とかバスに乗せてもらう。座席に坐るとすぐにうとうとする。社員証でゲートを抜け、エレヴェーターで上がり、広いオフィスの隅にあるデスクに辿り着くと、PCのモニターに向かう。
会社に通うとき、毎朝泣きながら起きた。ラッシュアワーにインチョンからカンナムまでの電車に乗ったことなんてある? 生存の前に尊厳の問題など何の役にも立たない。バスに揺られて12番目の停留所へ。メトロ1号線でシンドリム駅まで行き2号線に乗り換え。2時間もの責め苦なんて、前世で私は何かしでかしたのだろうか? 会社に着くなり家に帰りたいとしか思わなかった。自分が会社の歯車だとして、その歯車がどこでどのように回転するのか分からなかった。そもそも会社が何をしているのかさえ知らなかった。
昼休憩で課長らと定食屋に入る。課長が鱈の鍋にすると言うと男性社員は女性社員に確認を取らず、鱈の鍋を4人前注文する。呆れるケナは店内のテレビに目をやると、チーターがトムソンガゼルを狩るドキュメンタリーが流れている。
私が韓国で生きていけないと思った理由は、韓国では競争力の無い人間だったから。絶滅が運命付けられた動物と言ったところ。寒さを乗り切ることができず、何かに激しく命をかけることもできず、親から受け継いだものも無い。サヴァナでチーターに捕まるトムソンガゼルは群れからはぐれて餌食になる。私はトムソンガゼルでも捕まるわけにはいかない。だから韓国を抜け出すことにしたんだ。
昼食を終えて会社に戻る途中、信号待ちをする。青信号で道路を渡り始める他の社員たち。ケナは立ち止って、轟音を上げる飛行機を見上げる。
ケナが課長に別室に呼び出される。MKデジタルを候補から外した理由は? 評価が低いからです。MKは前回も落札しただろ? 昨年の書類に不明点があります。評価が低いのに落札しています。だから規定通り候補から外しました。MKで問題があるか? 他社が落札して何かあったらどうするんだ? 関係が構築できている所と仕事をするのが上策なんだ。人と人との関係なんだから。馴れ合いを避けるために入札にしているんでしょう? 人と人との関係で一番重要なのは何だ? 何故そんなことを訊くんですか? 柔軟性に欠けるからだ。基準を満たさない会社に便宜を図るのが柔軟性ということですか? 違う! 人と人との関係で一番重要なのは信頼だって話だ。評価の改竄なんて私にはできません。できなかったらどうするんだ? 退職します。ヘッドハンティングでもされたのか? それとも実家が資産家なのか? パク部長に辞表を出します。そんなことする必要があるか? 来月には異動がある。人事に伝えるから。去年も同じ事、言ってましたよね。営業ならいつでも行かせられるが、営業や法務は嫌なんだろ? 監査か総務に推薦するから。お気持ちだけはお受けします。責任をもって解決するから。信頼してくれ。人と人の関係で一番重要なのは何だ?
ケナがシミョンと居酒屋で飲んでいる。来月から総務部で働くつもり。本当にいい根性してるなあ。2人は焼酎で乾杯する。私がすごいんじゃないの。突然部下に辞められたら課長の人事考課に響くの。運がいいな。耐えてはみるけど無理なら辞める。辞めてどうするの? 韓国を抜け出す。何言ってるの? 私の出した結論は、韓国には未来が無いってこと。格差はあるけど、韓国は一生懸命生きてる人にチャンスがある場所だよ。1人当たりのGDPならトップ20、スペインやイタリアと遜色ない。試験勉強で猿知恵付けたね。じゃ、そんなに住みやすい国なら、OECD諸国で自殺率1位ってどういう訳? 私は人間らしく生きたいの。海外に行けば天国か? 韓国で生活している東南アジアの人たちを見てご覧よ。母国で一流大学を出てもここじゃ日雇いの仕事しかない。幸せそうに見えるか? 東南アジアの人たちを侮辱してるよ。何を根拠に幸福を評価している訳? 記者になりたいっていう人間の言い草? 分かったよ、ごめん。仕事が大変なら休んだらいい。就職したらさ、養ってあげるから。また話がずれてる。そんなこと全然頼んでないっ! ケナは席を立つ。まだ話が終わってないって。ケナは会計を済ませて店を出て行く。
チュ・ケナ(고아성)はホンイク大学卒業後、カンナムにある大手金融系企業で働いていた。早朝に起きてインチョンから片道2時間かけて通勤し、男たちの馴れ合いで物事が決まる職場では、PCに向かって言われた作業をこなすだけ。再開発が進む老朽化した集合住宅にある実家に翌朝に備え眠るためだけに帰る。フリーターの妹ミナ(김뜻돌)は仕事が長続きせずネットゲームで昼夜逆転した生活を送る。母親(오민애)は3年先の退去期限までに転居費用を捻出しようとケナの貯金を当てにしている。低賃金で黙々と働く父(이상희)はケナに親のことは気にせず自由に生きるよう励ましてくれる。大学時代から7年間交際するシミョン(김우겸)は兵役に就いた関係で、翌年卒業し、記者として働く予定だ。シミョンは韓国は努力が報われる社会だと言うが、裕福な家庭の子息だからこその発言だ。仕事が辛ければ面倒を見るから辞めればいいと優しいが、働くことで自己実現したい気持ちはケナにもあった。ケナは家族を残し、シミョンと別れ、ニュージーランドのオークランドへ渡り、永住権を取得することにする。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
ケナは塾に通わせてもらえず独学でインソウルのホンイク大に入学した努力家だ。勤務先もカンナムの大手金融系企業で羨ましがられる立場にある。それでも、インチョンから片道2時間、満員の電車に揺られて職場を往き来する生活に意味を見出せない。自分が会社でどんな役割を果し、どのように社会に貢献できているかが全く見えない。優しい交際相手のシミョンは韓国が努力の報われる社会だと言うが、それはシミョンが裕福な家庭の出身で、しかも男性だから吐ける言葉だとしか思えない。母親は家族の健康と幸せが自分の幸せだと言うが、女性も仕事その他で自分の理想を叶えられなければおかしいと思う。フリーターの妹ミナは仕事が長続きしないが、好きなバンドを追いかけ(しかもヴォーカルのホンウォン(이현송)と交際している)、ネットゲームで憂さを晴らしている。鬱屈しつつも自分なりに生活を楽しんでいるようだ。幸福とは何なのか。そもそも幸福が過大評価されていないか?
ケナの同級生パク・ギュンユン(박승현)は真冬にもサンダル履きの公試族(공시족。公務員試験受験生)。気立ては良いが熾烈な受験戦争を勝ち抜くにはひ弱すぎる。まさに群れから置いて行かれるトムソンガゼルである。ギュンユンは幸福の伝道師チェ・ボクヒ(정이랑)の講演を大学で聴講し、お金ではなく幸せを集めるというメッセージに共感したらしい。出版記念グッズの方位磁針を手に入れていた。ケナに方位磁針を示し、正しい方向を見定めようと針は常に僅かに震えているのだとギュンユンは言う。震える針こそ、遠い目標に向かって気持ちが揺らぐギュンユン自身の姿である。
オークランドに渡ると、留学生の相談に乗るキム・テウン(김지영)から、韓国出身のジェイン(주종혁)を紹介される。ケナがジェインのため口を注意すると、韓国社会のしきたりを引き摺っていると指摘された。
靴屋で仕事をしているとき、ケナは店長からスニーカーは店の雰囲気にそぐわないからヒールを履くよう注意された。同僚のエリー(Trae TE WIKI)がヒールを履かなくてはならない規定にはないし広い売り場でスニーカーには実用性があると庇ってくれた。エリーは自由に生きたければ言うべきことは言わなければならないとケナに言う。
(以下では、終盤の内容についても言及する。)
ケナはギュンユンとハンバーガーチェーンで「再会」する(このシーンがとりわけ印象深いのは個人的な記憶のせいもある。かつて優秀で真面目な同級生が自ら命を絶ったとの報に接した。ある試験の受験生だった。いつもにこにこしていて、笑顔しか思い浮かばない)。ケナは自らを『寒がり屋のペンギン』に見立てていた節があるが、ギュンユンのことも『寒がり屋のペンギン』、すなわち同じタイプ、境遇の人間だと思っていたに違いない。ギュンユンにも生まれついた場所から離れたいとの願望があったが、何かが足枷となって彼の行動を封じたらしい。ギュンユンを陽差しのある暖かな場所に連れ出せていたらとの後悔がケナを襲っただろう。そして、ギュンユンが望んだような、見晴らしが良く、空気が綺麗で、陽の当たる場所へ自ら出て行くことを改めて決意したのではないか。