展覧会『第31回大学日本画展 武蔵野美術大学日本画学科卒業生グループ展「Tell Me a Bedtime Story」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2025年3月1日~16日。
武蔵野美術大学大学院造型研究家美術専攻日本画コースの在籍者及び修了者である、鎹さやか、小野三月、ジェイリン祝重、亞種の4名の作家を紹介する企画。
ジェイリン祝重の《Griffin's reverie》(1300mm×1620mm)は、鷲の頭とライオンの胴体を持つグリュプスが岸辺に植物が繁茂する亜熱帯の河にいて、湧き立つ雲から姿を現わす龍と対峙する場面を表わした作品。グリュプスは、鷲とライオンとのハーフであり、アメリカ人と日本人のハーフである作家の姿が投映されている。複数の流れが1つの流れとなって海へ注ぎ込む河もまた、混ざり合う状況を重ねて表現するようだ。但し川水より目立つのは、亜熱帯の植物で鬱蒼とする河畔である。アンリ・ルソー(Henri Rousseau)の《夢(La Rêve)》を介して夢想へと誘う。また、グリュプスの前で舞う蝶は「胡蝶の夢」を連想しない訳にはいかない。雲の中から龍が姿を見せる。龍もまた想像の存在であり、水の神ともされる。雲と龍とではその形象はまるで異なるが、水である。横山大観の《生々流転》の主題である色即是空に通じる。あるいは、アンリ・マティス(Henri Matisse)が晩年に切り絵の作品により空と海とが容易に反転することを示したように、鱗を持つ存在が空を駆ける、天地の反転である。仮象に囚われない真理の探究が窺える。麒麟が室内で椅子に坐る姿を窓から覗く満点の星を背景に表わした《We’re all under the same stars》(1300mm×1620mm)も内外、すなわちミクロコスモスとマクロコスモスの照応であり、色即是空である。
小野三月《楽園》(1803mm×2735mm)は、砂浜に置かれた3月のカレンダーの上に左手を載せたイメージを中心に、立ち尽くす少年、傘を持つ腕、リカちゃん(人形)、亀、ラーメン屋、プール、監視塔、サッカー場、電柱や鉄塔、観覧車、稲妻が走ることで紫色に変じた空等々、様々なモティーフが盛り込まれた作品。降りしきる雨、そして、画面を縦横無尽に走る青い曲線が全てを繋ぎ併せている。3月(March)のカレンダーを手(指というべきか。手首から掌がなく直接指が伸びる)で押えているのは、時の直線的な進展(march)を否定し、過去と現在とが区別なく存在することを表わすのだろう。公開中の映画『プレゼンス 存在(Presence)』(2024)に登場する「存在」(霊)がそうであるように。作家はそのような世界を"Arcadia"と捉える。
人間が「関係」を喪失することは「不」、すなわち内面に出所不明の自己否定を抱え込み、相手不在の罪責意識に苛まれ続ける。人はこのとき「もの」にまで転落しているのだ。(略)
(略)
この人間の基本的なあり方は、つねに危機にさらされている。たとえば和辻〔引用者補記:哲郎〕は、「人間存在」という日本語に注目する。存在の「存」は、いつ時間が途切れるかわからない恐怖をあらわしており、あらゆる瞬間に「亡」に転じる可能性がある。存亡の危機という言葉があるのはそのためだ。時間はその背後に、つねに終焉と崩壊の自覚を含んでいる。また、存在の「在」もおなじあやうさを指している。今ある場所から、何か大切なものが奪われ、忽然と消える可能性を「在」は含んでいる。(先崎彰容『批評回帰宣言 安吾と漱石、そして江藤淳』ミネルヴァ書房/ 2024/p.88-89)
「何か大切なものが奪われ、忽然と消える」ことのないように、時間を抑え込んだ世界が"Arcadia"なのだ。リカちゃん(人形)、鉄道模型、野球のボール、炎を上げる車、農道、川沿いの街などのモティーフをウォータースライダーのようなピンクの曲線で縫い合わせた《それぞれの天使》(1803mm×2735mm)は、関係の喪失による「出所不明の自己否定」の形象化の試みと解し得よう。
鎹さやかの《千の夜》(1620mm×2923)には、花が咲き乱れる中、蓮の花を手にした天女や花を銜えた瑞鳥が、満月を眺める、十二単姿の女性のもとに来訪する場面が描かれる。月に向かって背を向ける女性はかぐや姫であり、八月の十五夜に月へ帰る場面なのであろう。ならば「千の夜」とはかぐや姫が穢土において瞬く間に過ぎ去った時間を指すことになる。来迎図では左(西方)から迎えが来るが、月を画面上段に配することで、天女や瑞鳥を左右に配する。満月という円(画面に見えるのは半円である)に向かってかぐや姫が帰還するイメージを、円弧を女性の周囲や天女の周囲に繰り返すことで、生み出すようだ。流水文様に女性の身体を重ね合わせた《金色の時》(1500mm×900mm) では、箔の腐食による黒ずんだイメージが提示されている。時間の進行を川の流れに擬えることは日本ではごく自然のことであるが、。その流水=女性に化学変化を用いることで時間を早送りさせている。一種のタイムスリップであり、『竹取物語』における、かぐや姫にとっての地球での時間の速度を連想させよう。
亞種の《Ⅵ. The Lovers》(1560mm×910mm)は2体の球体関節人形のようなキャラクターが巴状に円形の絨毯に眠る姿をあらわす。赤と黄の組み合わせによる絨毯との対照から、キャラクターのペンで描いたイラストレーションのような表現が強調される。《Ⅶ. The Chariot》(1560mm×910mm)では、球体関節人形のようなキャラクターの1体がもう1体に負ぶさることで、馬の骨のイメージとともに馬の姿を構成するのを、1頭の馬ととともに表わした作品。《Ⅸ. The Hermit》(1560mm×910mm)には、球体関節人形のようなキャラクターがランタンをぶら下げた長い杖の脇に坐り込み、背を向けて顔から剝がした仮面を見つめている。「ゴス」とも称される現代的なゴシック文化に見られる、一種のアナクロニズムの退廃的なイメージで、縦長で統一されたイラストレーション風のスタイルはタロットカードのような印象を生んでいる。