展覧会『雪下まゆ「Spectrum」』を鑑賞しての備忘録
FOAM CONTEMPORARYにて、2025年3月8日~4月2日。
黒い影に脅かされる女性などをモティーフとした絵画で構成される、雪下まゆの個展。
「Lithium」シリーズ(各727mm×727mm)は、臙脂を背景にベリーショートの女性の顔を描いた作品。眼を惹くのは沢山の黒い棘が顔から突き出している点である。鉄など金属製の針や釘が鮮血とともに飛び出すのではなく、磁性流体が磁力に反応して突き出たといった印象だが、それでも痛々しさと無縁という訳にはいかない。しかしながら目を瞑るか僅かに閉じた女性たちは、恍惚とした表情を浮かべているようにも見える。"Lithium"は化学元素Liであり、双極性障害の治療薬(リチウム塩)であるとともに、ニルヴァーナ(Nirvana)の楽曲のタイトルでもある。ニルヴァーナの「Lithium」もまた双極性障害的なニュアンスがあるが、"Light my candles in a daze 'cause I've found God"などといったキリスト教に纏わるフレーズも登場する。
《羊飼いの声を知らない》(727mm×530mm)は都会の群衆の中に佇む少女を描いた作品。通りが黒い塊となった人々で埋め尽くされる中、白い髪の少女が浮き立つ。少女が迷える仔羊であり、羊飼いは神=キリストである。他方、《見失った羊のたとえ》(1120mm×1455mm)では闇から伸ばされる黒い手によって捕らわれる女性が羊を抱き抱えて横たわり、《book of job》(1000mm×650mm)では無機質な閉鎖空間の中で黒く汚れた床の上に女性が羊とともに立つというように、むしろ女性が羊飼い的な立場に立つ。
キーヴィジュアルの《Spectrum)(1620mm×1303mm)では、翼を持つ女性が赤い光に照らされて雑居ビルの階段下に坐る姿が映し出される。赤い光に包まれた情景はテート美術館所蔵《パンデモニウムへ入る堕天使(The Fallen Angels Entering Pandemonium)》を連想させる。彼女は堕天使ではなかろうか。天使から悪魔へと移ろう。"Spectrum"とは、光に様々な色が含まれいるように、人にも――善悪を問わず――様々な側面があることを訴えるのではないだろうか。神や天使にも悪魔にもなり得るのである。
《All apologies》(727mm×530mm)には湯船に浸かる女性に伸ばされる黒い手が、
鏡を前に口紅を塗る女性を描く《完成しない》(727mm×530mm)やクローゼットの前に立つ女性を描く《狂気》(727mm×530mm)では女性に赤い眼の魔物が負ぶさっている。彼女たちは狂気や悪に捕らわれようとしている。その実、狂気や悪は、外部にあるのではなく――ちょうど「Lithium」シリーズにおいて黒い棘が内部から飛び出すように――もともと内部に備わっているものなのだ。ならば善性もまた備わっているはずである。人は常に善悪の間で揺れ動いているのであり、悪だけあるいは善だけである者は存在しないのだ。