可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 向井ひかり個展『ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ』

展覧会『第1回BUG Art Awardグランプリ受賞者個展 向井ひかり「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」』を鑑賞しての備忘録
BUGにて、2025年2月19日~3月23日。

日常生活で目にする細やかな光景に着想した立体作品と映像作品とで構成される、向井ひかりの個展。

「手に押された砂つぶの流れのような小さな出来事も、宇宙で起こりまくっている膨大な出来事の一つと捉えて記録していく」作家の姿勢は、創作のための方眼紙のノートに作家と猫の形のヘアクリップとの影が映る様を撮影した映像作品《猫を灯す》に示されている。作家=ノートでは世界のあらゆる事象=影が等価に扱われるのである。影を生み出す光は、太陽=宇宙からノート=地球(地上)に届いている。

《クリームそうろく》は、都心部の高速道路を走行する車内から撮影したビル群に生クリームを塗りたくり、蝋燭を並べたイメージを描き加えた映像作品。全ては生クリームという白いのっぺりした世界に変わり、ケーキのように切り分けられるのを待っている。世界が切り分けられる前の、すなわち言葉(≒名前)が誕生する以前の世界を想像するよう作家は促す。作家は決して言葉の誕生を言祝ぐのではないだろう。田村隆一よろしく「言葉なんかおぼえるんじやなかつた/言葉のない世界/意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかつたか」(田村隆一「帰途」第一連。三浦雅士後掲書p.241-242より孫引き)と嘆く。分断の無い世界を構想しているのである。

《zombie》は中央線の車窓から撮影された住宅街の映像に、ゾンビの姿を描き込んだ映像作品である。ゾンビとは死者(の蘇り)である。名前を持つ者は死してなお生き長らえる。人は死してゾンビになる。

 言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは、俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといっていい。追う者と思われるものはいわば互いの俯瞰する眼の高度を競い合っているようなものであり、より高い視点に立ち、より広い視野を持つものが他を制するのである。(略)
 (略)
 人が現世と来世、この世とあの世を考えるのは、俯瞰する眼にとっても、視覚が必要とする距離の内実としての思考にとっても、不可避だったろう。世界のさまざまな事物に騙されないにする――場合によっては逆に世界を欺く――ために施された刺青をはじめとするさまざまな人体加工、あるいは道具類に刻みこまれる記号の体系は、人が誰であるかと記憶させるに十分なだけではない。死後も長く記憶されることを促しただろう。
 思考の領域が行動の領域から自立することと、記憶の領域が自立することとは表裏である。記憶は思考の素材であり、図式化されるべきものの筆頭である。あの世の体系化は、この世の体系化にこそ役立ったのだ。
 言語革命は死後を発明しただけではない。
 この世をあの世に変えたのである。
 出生した赤子に名を与えることはこの世に位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名はすでになかばこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを揺することなのだ。人間は死者に立ち混じって生きること、死者を生かし続ける術を発明したのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.479-480)

ペンギンの飼育小屋の模型《ピングーアース》のペンギン、縄文時代のチャンピオンベルト《チャンピオン》の縄文人、鉱物で装飾された台座《エメラルド》の何かは何れも不在である。不在によって、ペンギン(動物)、縄文人(死者)、何か(モノ)の存在を想起させる。それらの身に立って考えることでそれらの視線を獲得させるのである。その眼差しは分断を乗り越える力となる可能性を持つ。
従って、会場の天井の剥き出しのダクトなどの模型を床に再現した《山間部》は見下ろすことによって見上げ、天井のダクトなどを月面基地に見立てる《基地》は見上げることによって見下ろすよう迫るのも、対岸からの眼差しを手に入れるためのエクササイズなのである。
「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」とは、生者が死者と出逢う浜辺である。生者の世界と死者の世界との境界である。従って、「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」とは、この世界そのものである。