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芸術鑑賞の備忘録

映画『悪い夏』

映画『悪い夏』を鑑賞しての備忘録
2025年製作の日本映画。
114分。
監督は、城定秀夫。
原作は、染井為人の小説『悪い夏』。
脚本は、向井康介
撮影は、渡邊雅紀。
照明は、志村昭裕。
録音は、秋元大輔。
美術は、松塚隆史。
装飾は、松塚隆史。
小道具は、タグチマリナ。
スタイリストは、浜辺みさき。
ヘアメイクは、板垣実和。
整音は、伊香真生。
音響効果は、小山秀雄。
編集は、平井健一。
音楽は、遠藤浩二

 

アスファルトに落ちていた蝉の抜け殻が黒い革靴に踏み潰される。
夏の盛りの昼日中、佐々木守(北村匠海)が噴き出す汗をハンカチで抑えながら郊外の共同住宅へ向かう。近くにいた犬に吠えられながら、1階にある山田良男(竹原ピストル)の部屋の呼び鈴を押す。船岡市役所の佐々木です。定例の面会に伺いました。開いてます! 暑いのにご苦労様です! 慌ててコルセットを嵌めた山田が返答する。
ゴミ袋が散乱する室内。山田が座布団を出して佐々木に渡す。山田は這って冷蔵庫を開けると、辛口のビールを取り出して佐々木に渡そうとする。受給者からのものを頂くわけには…。ああ、駄目でしたよね。山田は冷えた缶ビールを飲み出す。山田さん、お仕事の目処は立ちそうですか? ヘルニアでどんな仕事もね…。これだって好きで飲んでんじゃないですよ。痛みが和らぐからね。山田は腰椎椎間板ヘルニアの診断書を佐々木に得意気に差し出す。好きで生活保護をもらってるんじゃないよ。月9万じゃ、飯はコンビニ、服はしまむらがせいぜいだから。節約しようと自炊される人もいますが…。佐々木が卓袱台の上のポルノ雑誌に目を留める。アナログ派なんで写真じゃないと真に迫って来ないんだよ。佐々木さんはスマホ? こういうの見ないんで。えっ? 結婚は? 独身です。彼女は? いないです。まさか童貞ってことはないでしょ? 山田さん、話が逸れてますよ。脱いで稼ぐより童貞の方がまともか…。山田が雑誌を眺める。どんな仕事でも働いていれば無職よりいいですよ。思わず呟く佐々木に山田が激昂する。働けなくなって女房や子供たちに逃げられた男の気持ちが分かるか! あんたみたいな想像力無い人間がこの国を駄目にしてんだ! そのときゴキブリが出てきて驚いた山田が飛び退る。…あっ、立った!
佐々木が自販機で購入した冷たい飲み物を飲み干す。大量のアルミ缶を集めて廻る男(チャンス大城)が、佐々木が飲み終えた空き缶を受け取って自転車を押して立ち去った。佐々木の額から汗が垂れる。マンホールに落ちた汗は、瞬く間に蒸発した。
船岡市役所。福祉生活課。佐々木君、山田さんの所、これで何回目の訪問? 腰椎椎間板ヘルニアの山田が立っていたと課長(菅原大吉)に報告する佐々木に先輩の宮田有子(伊藤万理華)が詰問する。4回目です。生活保護の受給はね、やむを得ない事情で厳しい生活を余儀なくされた困窮者であることが大前提なの! 佐々木君は優しいからね、と課長がフォローする。不正受給者を放置するから正当な受給者までが偏見を持たれるんでしょ! ケースワーカーはケースの防波堤であるべきなの! 申し訳ありませんでした。佐々木が自席に戻ると隣の高野洋司(毎熊克哉)が話しかけて来た。今日、こっちのケースが3件。高野が頬を人差指でなぞる。あいつら失うもんがないからさ、辞退迫って逆恨みでもされてみろよ、何だってやりかねないぜ。佐々木、代わってくれないか? 1件でもいいからさ。佐々木は困惑する。高野さん、私か行きましょうか? 宮田が高野に申し出た。冗談だよ、冗談。訪問行ってきまーす! 高野が出て行く。佐々木君、今日は仕事終わったら時間ある? …はい。
林野愛美(河合優実)が小さなコンビニに立ち寄る。弁当を手にレジに向かう。38番。煙草を頼む。身分証とかあります? 店員(山下永玖)が尋ねる。私22、子供いんだけど。店員は煙草を出し、バーコードを読む。1019円です。財布を確認した愛美はやっぱこれ大丈夫です、と弁当を返す。
愛美が煙草を吸いながら自宅に戻ると、娘の美空(佐藤恋和)が高野にアイスクリームを食べさせてもらっていた。おかえり。子供残してどこ行ってたの? 何回か電話してみたんだけど、スマホも置きっ放しだし。ちょっとコンビニ。愛美ちゃんの分もあるよ、冷凍庫。高野は最後の一口といって美空にアイスを食べ終えさせると、愛美に言う。他の予定あってさ、あんま時間無いんだよね。愛美は美空にあっちでお絵描き、と言って隣の部屋に連れて行き、襖を閉める。高野は愛美の背後に廻り、首筋を嘗める。…ああ、いい匂い。アレ、いいのかな? ゴム着けて下さいね。分かってるよ。高野が愛美の顔を舌で舐め回す。美空は襖を隔てた隣の部屋でクレヨンで隣から漏れてくる声を掻き消すように絵を描いている。
パチンコ店。台に向かっていた莉華(箭内夢菜)が愛美に気付き、軽く手を挙げる。あっち、64番。莉華が台を告げる。
ファミリーレストラン。莉華が愛美に尋ねる。娘今どうしてんの? 家。1人で遊んでる。幼稚園は? アキないし、おカネもない。莉華のところは? 親に看てもらってる、父親は養育費も払おうとしない。愛美また店出てくんない? 近くにデカい店できてさ。客流れてんの。無理。あんたさ、生活保護受けられてんの、私が龍ちゃん(窪田正孝)に紹介してあげたからだよね。頼んでない。龍ちゃん、女だからって手出さないなんてないんだよ。あんたまでオドしてくんのかよ。あんた、誰に脅されてんの? 言ってみ。いいよ。
高野さんがケースを脅迫? 宮田の話に佐々木が驚く。佐々木は宮田に誘われて仕事帰りに居酒屋で飲んでいた。

 

佐々木守(北村匠海)は船岡市役所福祉生活課の職員。温厚な課長(菅原大吉)の下で生活保護を担当している。ケースの1人山田良男(竹原ピストル)は不正受給の疑いがある。先輩の宮田有子(伊藤万理華)からは不正受給を断たないと正当な受給者まで偏見をもたれることになると、不正受給者から辞退をとるよう発破をかけられるが、訪問の度に体よく遇われる。宮田に飲みに連れ出された佐々木は、同僚の高野洋司(毎熊克哉)がケースを脅迫して肉体関係を迫っているとのタレコミがあったと打ち明けられる。宮田は佐々木を伴ってケースの林野愛美(河合優実)の家を訪れるが、愛美は高野から肉体関係を強要されていることはないと否定する。女同士の方が話しやすいと宮田に言われた佐々木は愛美の娘・美空(佐藤恋和)とお絵描きをして懐かれる。愛美が生活保護を受給するきっかけは莉華(箭内夢菜)の交際相手・金本龍也(窪田正孝)だった。愛美が高野にセクキャバでの仕事がバレ、口止めを条件に肉体関係を強要されるだけでなく3万を抜かれていると聞いた金本は、高野を窓口にホームレスを送り込んで生活保護を受給させ、住居を提供する代わりに1人当たり7万を受給額から差っ引くビジネスを始めることにする。愛美を犯す場面の盗撮映像を突き付けられた高野は金本の言いなりになるが、同僚のケースワーカーに高野の強要がバレたことを知った金本は即座に手を引く。金本の手下の山田は愛美の家を訪れ、愛美が市の職員に高野について漏らしていないか確認する。そこへ佐々木が美空にプレゼントするクレヨンを持って現われた。愛美と佐々木のやり取りを盗み見ていた山田は、金本には内緒で自ら佐々木を強請ることを思いつき、愛美に佐々木を誘惑して録画しろと迫る。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

船岡市役所福祉生活課の職員佐々木守は、同僚の高野洋司の不祥事を確認するために、先輩の宮田有子とともにケースの林野愛美の自宅を訪れる。佐々木は、愛美に邪慳にされる美空の身の上を憂慮し、愛美の家を度々訪れるうち、愛美と恋愛関係となる。だが愛美の背後には、愛美に生活保護を受給させた金本龍也や、その手下の山田良男がいて、佐々木を使ってホームレスに生活保護を受給させピンハネする貧困ビジネスのチャンスを窺っていた。
愛美が美空に今一つ愛情を注げない理由は、自らが母親に大切にされてこなかったためである。愛美は山田から貧困ビジネスに佐々木を抱き込むために佐々木との性交渉を隠し撮りするよう求められていたが、佐々木の訪問を受けるうち、山田の要求に従いたくないという気持ちが湧き上がってきた。
古川佳澄(木南晴夏)は4年前にトラックドライヴァーだった夫を失い、古川勇太(斉藤拓弥)を1人で育てている。携帯電話を解約し、電気も停まる事態ににまで追い込まれるが、仕事が見付からず、頼る身内もない。それでも日々大きくなる息子のために食事を与えなくてはならない。スーパーでつい商品に手を伸ばし、マイバッグに入れてしまう。製菓工場で箱詰めの職を得た矢先、万引きが発覚し、佳澄は解雇される。公演で汲んだ水ばかりを飲んで暮らすこともできず、佳澄は最後まで渋っていた市役所の福祉課に足を向ける。

(以下では、後半の内容についても言及する。)

佐々木が愛美の家に入ると、金本たちが待ち構えていた。佐々木が愛美を抱く動画を示され、金本が送り込むホームレスに生活保護を給付させるよう強要される。佐々木は愛美からかけられた「いなくならないでくださいね」という言葉に衝き動かされてきたにも拘わらず、否、その言葉を大切にしていたからこそ、愛美の裏切りは衝撃であった。
愛美は山田による佐々木に対する計略に加担することを拒絶していた。だが金本は高野が懲戒免職でなく依願退職になったのを不自然に思ったことをきっかけに、山田が自分を差し置いて佐々木を利用した生活保護給付のピンハネ計画を進めていることを知る。愛美は金本に美空を売り飛ばすと脅され、佐々木を罠に嵌めざるを得なくなっていた。佐々木が美空と愛美に愛情を注いだからこそ、愛美は変われたのであるが、それが皮肉な結果を招いたのである。
佐々木は、愛美の事情を知らず、裏切られたとの思いだけを抱かされた。金本による脅迫よりもむしろ人間不信によって、佐々木は自暴自棄になる。金本によって送られてくる者たちに生活保護を給付していく。そんな中、相談に訪れたのが佳澄であった。佐々木は怒りの矛先を衰弱した佳澄に向ける。真剣に求職もせず生活保護に頼るなと撥ね付けてしまう。
冒頭、うだる暑さの中、朦朧とする意識で歩いていた佐々木が、アスファルトに落ちていた蝉の抜け殻を踏んでしまう。蝉の抜け殻は、空虚な日々を送っていた佐々木自身の姿だ。佐々木が美空を天使だと言う。佐々木の「空」白は愛「美」と「美」空により埋められたのである。守るべき存在を得て、佐々木は脱皮する。同時に、ふらふらと歩く佐々木の姿は、愛美に裏切られ、貧困ビジネスの片棒を担がされて心を病む佐々木自身の未来の姿でもある。その場合、脆い蝉の抜け殻は、困窮の限界を迎えていた古川の姿となる。

(以下では、結末に関する事柄についても言及する。)

相談者を自死に追いやってしまったことを知り思い詰めた佐々木は心中を図る。愛美は一旦は佐々木の気持ちを受け入れようとするが、美空を見て、美空を守り抜く腹を決める。佐々木によって与えられた愛情を愛美は美空に注ぐことができるようになっていたのである。

出演陣がいずれも素晴らしい。

本作に関心のある向きには、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(The Florida Project)』(2017)や『あんのこと』(2024)をお薦めしたい。