展覧会『ACT (Artists Contemporary TOKAS) Vol.7 複数形の身体』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2025年2月22日~3月23日。
身体の複数性をテーマに、透過性のある身体ないしその部位が重なり合う絵画の庄司朝美、誰のものでもない共有の身体による言語を構想する敷地理、菌類に着想した絵画とインスタレーションを提示するマリオン·パケット(Marion Paquette)の3名の作家を取り上げる企画。
眼は距離をもたらし、距離は猶予をもたらし、猶予は思考をもたらした。その必然的な流れの必然性は、眼前するものを疑うこと、自分は騙されているのではないかと疑うこと、要するに騙し騙される領域の持つ必然性にほかならない。
チョムスキーが言語の特性としおて挙げたことの第一、すなわち自分は騙されているのではないかと疑うことは、言語の特性というよりは、何よりもまず眼の特性だったのだ。とすればおそらく、次のように断定しても誤りではない。
言語革命は視覚革命に匹敵する。
視覚革命によって生命に与えられた能力を、そっくりそのまま外在化したものが言語なのだ。そう考えたほうがいい。その能力とは、騙すこと疑うこと以外ではない。
視覚革命と言語革命の巨大さについて喋喋する必要はない。農業革命や産業革命も巨大だったが、質が違う。前者は生命史における革命であり、後者は人類史における
革命である。質のみならず規模が違う。いまやAI革命がいわれ、インターネット革命がいわれるが、それらは言語革命の系のひとつにすぎない。言語そのものが人工知能でありインターネットなのだ。コンピュータは言語現象の一面を拡大して見せているにすぎない。だが、自分を騙すこと、自分を疑うことは含まれていない。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.476-477)
庄司朝美の油彩画《24.12.23》には、中心に左目が覗いている薔薇の花が描かれている(花弁の中には歯も見える)。薔薇の花の背後には人間の頭部(額)がぼんやりと現われる。ペールオレンジの円は夕暮れ時の西の空でもあり、空には帰巣する鳥たちの影が黒く浮かぶ。薔薇を見る者は、薔薇に見られる。夕陽を見る者は、夕陽に見返される。鳥を見る者は、鳥に眺められる。
繰り返すが、言語現象に不可欠なのは、相手の身になること、そしてその相手と自在に入れ替わるために、自他をともに一望する俯瞰する眼を持つこと、この2つである。俯瞰への意志が一方では鳥を生み、他方、飛べないものではそれが、脳中に俯瞰図を作成する能力として展開してきたのだと考えることができる。
俯瞰図を作成する能力、すなわち作図能力である。
光のスイッチが入ったときにすでに登場が予告されていたに等しいが、言語のスイッチが入ったときに確立された最大のものがこの作図能力、空間把握能力だったのだと、私は思う。
たとえば、相手と自在に入れ替わることができる能力の、その文法における対応物は能動と受動という転換様式だが、文法において決定的な意味を持つこの視点の転換が、俯瞰にともなう作図能力に対応することは明らかだと思われる。作図においては、くるりと回すだけで彼我が交替するのだ。
(略)
人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することによって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することは他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分を同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない、この自己を俯瞰する眼のことなのだ。そして、自己を俯瞰する眼は、自己に憑くこともできるが、他者に憑くこともできるのである。人間だけではない、自然物にも、場合によっては観念にも憑くことができる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.422-423)
視覚、俯瞰能力、言語により、人は、他者に憑くことができる。庄司朝美の《24.12.23》は、そのことを絵解きして見せる。通り沿いの窓に設置された《25.2.22》は透明のアクリル板(?)に両腕を真横に拡げた人物の、肋骨や背骨が透ける上半身が描かれる。内からも外からも眺められる絵画は彼我の交替を象徴する。
「誰のものでもない共有の身体によって発話される新しい身体言語でいかに観客に語りかけるか」を追求するダンサーの敷地理は、映像作品《untitled(burning dots 2025-)》で、左手の動きを捉えた映像と、その左手の動きを模倣する右手を捉えた映像とをそれぞれ左の大きめのモニター、右の小さめのモニターで再生することで、映像を見る者に「誰のものでもない共有の身体」を体感させようとする試みる。閉じたり開いたり様々な動作をしていた左手はいつしか花のイメージに変わり、さらに薔薇の一枝を摑む。その先端の花が灯された蝋燭に近づけられ炎を上げる。幻肢痛のように灼かれる痛みを感じることができれば、「誰のものでもない共有の身体」を手に入れることになるのだろう。
庄司朝美の描く薔薇の目、敷地理の映す薔薇の手とを組み合わせると、庄司朝美も参加した「顕神の夢―幻視の表現者」展(2023-2024)のキーヴィジュアルに採用されていた、中園孔二が左の掌に目を描いた作品《無題》のような、「手の目」が現われる。
ところで、竹内公太はスマートフォンを手にした人間を妖怪「手の目」に擬えて見せた。テクノロジーの発達は手に持つデヴァイスであらゆるものを見ることを可能にした。対象を間近に(at hand)に目にできるのは、現実の距離を捨象するためである。結果として、対象との距離に対する鈍感さ、無神経さが生じ、人々がむしろ「盲目」に陥っていることを指弾したのである。想像力の欠如としての「盲目」は、「風船爆弾」のような無差別大量殺人を招来する。
全てを見通す(panoptes)「パノプティコン」である「手の目」=スマートフォン利用者が盲目に陥る所以は距離感覚の喪失にある。敷地理は、ホモファベル(homo faber)が「手にした棒はスマートフォンやウェアラブルデバイスになり私たちの現実を拡張し複合させ」、延いては「手にした棒を自分の身体に向けて突き刺し、自分の中深くへとその棒を入れ込むこと」になると予言するように、近未来には視覚の対象との距離は失われる。距離ゼロは「盲目」に等しい。なぜなら視覚を可能にする光の射し込む余地がないからである。ならば「視覚」としてのスマートフォンを持つ手ではなく、触覚を発揮する本来の手を取り戻さねばならない。
マリオン·パケットは菌類をモティーフとした絵画を壁面に飾りながら、展示室内に《Corps commun》と名付けたネット状の装置を1mほどの高さに張る。鑑賞者はしゃがんでは孔から頭を覗かせつつ移動しなくては、壁面に辿り着き絵画を目にすることができない。
多くの菌類では1つの細胞の中に複数の核が含まれ、遺伝的に同一の場合も異なる場合もある。菌糸において個々の核が融合することなく機能する。菌糸に胞子を作る構造ができれば黴となり、集合すればきのことなり、単純化すれば酵母となるように変幻自在な存在でもある。そして、菌類は植物と違って光合成をして自分で栄養をつくることができず、必ず何らかの相手と相互関係を営み、栄養を得ることが必要だ(細谷剛「菌類に学ぶ」『ユリイカ』第54巻第6号p.81-84参照)。光合成ができず栄養を他者に依存するのは人間も同じである。
これら菌類の生き方の特徴から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。菌類の生き方は、見かけ上1つの「個体」として振る舞いながら、個々の構成員が個性を生かした共同体を形成し、目まぐるしく変わる環境に、こだわりなく対応し、生き残っていくことの大切さを教えてくれるように思う。(細谷剛「菌類に学ぶ」『ユリイカ』第54巻第6号p.84)
自らのうちに他者の身体を受け入れ、あるいは他者の身体に自らを重ね併せる。それでいて、個々が融合することはなく機能するような人間のあり方も不可能ではないかもしれない。マリオン·パケットのように菌類に学び、庄司朝美の描く絵画に現われる人々、あるいは敷地理のダンス(の映像や図形楽譜)を菌類の観点から眺めることが、「複数形の身体」を冠した展覧会の趣旨に叶うのではないか。