可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 会田誠『性と芸術』

会田誠『性と芸術』〔幻冬舎文庫あ-43-3〕幻冬舎(2025)を読了しての備忘録

餌皿を前に、手足を切断された少女が首輪に鎖を繋がれ、舌を出しながら上を向き微笑む《犬》(1989)の制作意図を作家・会田誠が開陳する。

 美術作品を作るに際して、「現代的であること」と並んで、「日本的でなければならない」という現在まで続いている私のルールは、まずはこの2人の文学者〔引用者註:三島由紀夫小林秀雄〕から教わったものだと思っている。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.37)

《犬》の日本的な性格は、何より《犬》が狩野永徳《檜図屏風》に着想していることにある。

 この日本絵画史に威風堂々と聳え立つ名画は、檜の太い幹を描く大胆なタッチと、針葉の1本1本を丁寧に描く細かいタッチの対比に特徴がある。いわば〈主題〉の強調と〈枝葉末節〉の強調という、本来なら相容れない描法が、1枚の絵の中で見事な均衡を保って同居している。これは東洋や日本の古い絵画の1つの特徴でもあろうが、この狩野派の中興の祖による『檜図屏風』は、そのお手本中のお手本というべきものである。
 私はこの絵の前で長い時間佇みながら、日本の絵画の神髄が分かった気がしてきた。そうして呆然と眺めているうちに、私の中である図像がモヤモヤと生まれ始めた。それが『犬』の原型的なイメージであった。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.35-36)

《檜図屏風》に着眼した背景には、東京芸術大学美術学部の「油画」で学ぶうち燻っていた不満があった。只管ヌードモデルをデッサンし、具象から抽象へという近代美術の流れを個々の学生が自ら体感する「指導」が行われていた。「油画」に漂う倦怠は、「日本画」の持つ使命感が欠けているためであると気付いたのである。

 見るほどに、知るほどに、近代日本画への愛着は増した。特に岡倉天心を中心に集まった画家たちが悪戦苦闘の末、近代日本画という新ジャンルを創出してゆくドラマには、スリルもあれば感動もあった。それは何ゆえかと考えると、やはり「日本」という自らが掲げた看板に対する使命感だったのではないか、と思った。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、主に西欧列強に対して民族的・文化的愛秘伝ティティを明確に示すことができなければ、彼らに飲み込まれてしまう――そういう危機感から来る熱量だったのではないか、と。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.42-43)

金融制度を中心に、日本の旧来の仕組みがグローバリゼーションに巻き込まれて崩れ去る、まさに「彼らに飲み込まれてしまう」状況を作家は「炭鉱のカナリア」として感知していたのである。作家は岡倉天心らとパラレルな立場にいたのであった。折しも日本画はバブル景気に沸いて国内市場で高騰していた。

 私は「惰眠を貪っている日本画を掻き回すこと」が喫緊の課題だと心に定めた。部外者の私だからできることがあるはずだ。日本画への愛の表明であり、同時に殴り込みでもあるような作品。日本画の懐に飛び込んで、脇を思い切りくすぐり、相手を悶絶させるようjな作品が作れないものだろうか……当時はそんなことばかり考えていた。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.46)

作家が《檜図屏風》に感受した日本絵画の神髄とは「ある種のエロティシズム」であった。パブロ・ピカソが20世紀を代表する芸術家で有る事は異論を俟たないが、作家は、ピカソのエロティシズムに対置されるのは川端康成ではないかと考えたという。

 それで私はこのような仮説を立てることにした。――私は永徳を見て「女体盆栽」のようなイメージを抱き、そこから川端康成を連想した。そこから無意識に埋もれていた『禽獣』の雌犬のイメージが喚起され、それがインドの見世物小屋の都市伝説〔引用者註:手足を切断された女性「だるま女」〕に繋がった――と。無意識の話なので何も確証はないが。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.67-68)

川端康成の「無害」かつ「陰湿な変態性」を擬人化した雌犬によって表現したのが《犬》であった。

ところで作家は若い頃に悟りを得る体験をしたという(会田誠も『顕神の夢』展にラインナップされるべきであった!)。

 我々人間が見させられているこの世――この地球――この宇宙は、全体の中のほんの一部の表面に過ぎない。膨大な〈本質〉は我々の能力では認識できない――そういう風になっている。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.67-68)

プラトンイデアに通じる見解である。実際、壁に書いた「美少女」という文字を見ながらオナニーする映像作品は《イデア》と題されている。作家はオナニーをキリスト教道徳のように禁忌と見ず、またセックスの代替とも捉えない。オナニーの価値を評価している。オナニーの核心は次の通りである。

 (略)オナニーをしながら好きな子=Xちゃんのことを思っていると、そのうち自分という〝みっともない肉体を伴った男〟の存在はイマジネーションの世界から消え、この世(宇宙)は〝可愛いXちゃんだけ〟になります。つまり、気がつくと自分がXちゃんになっているのです。Xちゃんに感情移入しXちゃんに憑依したまま、男であるはずの自分は、女性であるXちゃんとしてオナニーしているのです。(会田誠『性と芸術』幻冬舎幻冬舎文庫〕/2025/p.162-163)

すなわちオナニーとは「梵我一如」の体験なのである。《イデア》において壁に向かっていたのは、面壁の達磨に倣ってのことであった。壁に描いた「美少女」の文字でオナニーする作家とは、壁に向かい坐禅を組む達磨のメタファーだったのである。ここまで来れば《犬》の美少女が「だるま女」(手足を切断された女性)である理由は明白である。美少女により達磨を表わす意図があったからである。なおかつ美少女(遊女)と達磨とは、近代以前から――鈴木春信や勝川春好ら浮世絵師によって――繰り返し描かれてきたモティーフである。そして、美少女=達磨とは、オナニーし、美術制作し、瞑想する作家自身の姿に他ならない。若き日の梵我一如の直観が作家の作品に通底しているのである。