展覧会『石丸美緒里・上野悠河「□|」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14casにて、2025年3月18日~30日。
石丸美緒里の絵画作品と上野悠河の平面・立体作品とで構成される二人展。
上野悠河《キャンティ(吉田克朗への習作)》[12]は、床に鉄管2本を十字に組んで置いた中心にもう1本の鉄管を立て、その頂部を支点に角材を載せ、角材自体の重さで片側に吊した石の重りを支える作品。吉田克朗の「もの派」時代の作品に着想し、鉄、木、石という異なる素材の質感を対照させつつ、相互に働く力とその均衡状態を示す。
石丸美緒里《どうでもよくなかったこと》(1120mm×1620mm)[06]は、板を並べた天板に置かれた白い皿、皿の上のスプーンとフォーク、ソーサーに載せたグラスなどを描いた作品。茶系で統一された画面に白、銀、透明の艶やかな食器が調和している。なおかつ、皿やカトラリーの影が光のように山吹や青など複数の色のモザイクで表わしてあって違和感が無い。また、画面は複数の異なる和紙を貼り合せ、滑らかな表面を持つモティーフに反してザラザラとした触感が印象的である。絵画として纏め上げる力が発揮されている。因みに、既に食べ終えた皿にはスプーンとフォークが皿から食み出す形で置かれている。すなわちスプーンやフォークはそれぞれ「片持ち梁(cantilever)」の関係に立つ。木の天板、石物(磁器)の皿、鉄(ステンレス)のカトラリーと、上野《キャンティ(吉田克朗への習作)》[12]とは呼応するのである。
上野悠河《H.E.E.への習作》(333mm×455mm)[05]は、ハロルド・ユージン・エジャートン(Harold Eugene Edgerton)のストロボスコープを用いて撮影したゴルファーのイメージをサイアノタイプ・プリントの青い画面に白いペンで描き出している。隣には村上三郎の「紙破り」のパフォーマンスを想起させるような、大きく穴を穿たれた木枠が並ぶ。一見不調和なゴルファーのスウィングと穴の開いた木枠とは、クラブがボールにヒットするときの音とその効果表現として捉えることで調和する。
ところで上野悠河《ミディアム・アナロジー:短絡》[08]は、ターンテーブル上を色と音の信号を発するケーブルから接続された重りが転がり、ディスプレイとスピーカーに時に短絡した信号が伝わる装置。回転運動とショートとは上野悠河《H.E.E.への習作》[05]に回転運動と打撃音とに通じる。
石丸美緒里の絵画《かなしかったこと》シリーズ(各227mm×227mm)[01-03]には、それぞれ皿とカトラリーが描かれている。展示台の上に載せられた絵画の皿は、上野悠河《ミディアム・アナロジー:短絡》[08]のターンテーブルと呼応する。
会場の壁面の高い位置に設置される上野悠河《雲に対するレタアⅡ》(638mm×442mm)[07]は、サイアノタイプ・プロントの青い画面を青空として、白いペンで描き込まれた白い雲が浮かぶ。上野悠河《H.E.E.への習作》[05]のゴルファーが打ち上げたボールは空へと運ばれたのである。なぜレタア(letters)か。それはこの作品のフレームが右上と左下とに鉤括弧(「」)状に配されることで示される。この作品自体が文字(letters)なのだ。文字=言葉は論理であり思考である。そして、雲は変幻自在に姿を変えることから、色即是空を介し、空(くう)に対する思念と解することが可能である。
石丸美緒里は《Install》(210mm×210mm)[13]において食べかけのケーキの載った皿を描き、石丸美緒里《どうでもよくなかったこと》[06]で食べ終えた皿を描いた。さらに石丸美緒里《いってきますの前に》(910mm×1167mm)[10]では、何も載せられていない皿を表わしている。料理の載る皿は絵画の支持体のメタファーである。そこに何を盛り付け、あるいは盛り付けないのか。食べかけは留守模様を暗示する。全ては消え物、すなわち色即是空という諦観はミニマリズムの極致に至る。絵画の木枠の断片だけを提示する《A side of frame》(140mm15mm42mm)[09]は、木枠を極小化すれば絵画は極大化するという実験的試みであろう。しかし、赤瀬川源平の《宇宙の缶詰》がクリストの梱包作品の向こうを張った缶詰に極小化の限界があることに早々に気付いたように、ミニマリズムは行き詰まってしまう。上野悠河《鳥の墜ちた頃の…》(242mm×333mm)[11]の墜落する鳥のイメージは、空(くう)を思考することの限界を悟ったことのメタファーである。この回転運動と上昇、落下というイメージは、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の通称《大ガラス(Le Grand Verre)》が平面(作家は"|"で示す)において表わしたものを、ギャラリーの空間(作家は"□"で示す)に展開していると言えるのではないか。
そして、行き詰まりを打破するための手立ては中庸となろう。すなわち、《キャンティ(吉田克朗への習作)》[12]のように過度に走らず、均衡を保つ必要がある。そのとき、미(=美)が立ち現われるのである。