可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内田あぐり個展『安里/積層』

展覧会『内田あぐり展「安里/積層」』を鑑賞しての備忘録
日本橋高島屋本館6階 美術画廊Xにて、2025年3月19日~4月7日。

那覇市内を流れる安里川に着想した絵画《安里 ASATO》を中心とする、内田あぐりの個展。

《安里 ASATO》(1940mm×9170mm)には、主に色味の異なる緑色が力強く引かれたり、淡く刷いてあったりする。横たわる女性の後ろ姿が描かれていたり、花柄の千代紙(?)が貼り付けてあったり、別の和紙を黒い糸で縫い付けて龍の頭部のようなものが表わしてあったりと、混沌とした画面である。7つの画布を繋いだ横に長い画面を一覧しようと画面から離れても錯綜したイメージに変わりは無いが、2匹(あるいは双頭)の龍が左側から姿を見せるほか、右側に髪が長く伸びた人物の顔があるのに気付く。龍は右から左への流れを生み、長く伸びた髪は下に向かって垂れる。その髪の中には鯉の滝登りのイメージが挿入される。登龍門である。鯉は髪の瀧を昇り、龍に変じるのである。すると、中央に刷かれた澱みを中心に円環の構造が立ち現われる。

 もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述は、ロベスピエールに対してこれほどまでに誇り高くはないであろう。ところがその歴史は、繰り返されることのないものについて記述されているので、血に塗れた歳月は単なることば、理論、討論と化して、鳥の羽よりも軽くなり、恐怖をひきおこすことはなくなるのである。すなわち、歴史上1度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロベスピエールとの間には、はかり知れないほどの違いがある。
 そこで永劫回帰という考えがある種の展望を意味するとしよう。その展望から見ると、さまざまな物事はわれわれが知っている姿と違ったように現われる。それらの物事は過ぎ去ってしまうという状況を軽くさせることなしに現われてくる。(ミラン・クンデラ千野栄一〕『存在の耐えられない軽さ』集英社集英社文庫〕/1998/p.7)

作家は、近年、循環する水をテーマに制作しており(『顕神の夢』展)、那覇の定宿の裏を流れる安里川については、市街地を蛇行し淀む緑の水に魅せられたという。そして、安里一帯が沖縄戦の激戦地であったことを知るに至る。米軍が"Sugarloaf"と呼んだ「すりばち丘」は、おそらく安里川が削り残した地形であろう。川は戦争の惨劇を目撃し、記憶に留めている。また、沖縄島中南部には琉球石灰岩が分布する。安里川は、かつての珊瑚礁、すなわち生命の死骸の上を流れてきたのである。もっとも、記憶は水流すことはできない。作家が積層の英訳に"lamination"を当てているのは、ラミネート加工により生と死の記憶を守り伝えるためであり、またその響きに"laments(哀歌)"に通じるものを聴き取っていることは疑いない。《安里 ASATO》と向かい合う壁面に飾られたドローイング群に、神像や踊る人々のスケッチが含まれるは、供養の趣向であろう。