展覧会『木下拓也展』を鑑賞しての備忘録
十一月画廊にて、2025年3月31日~4月12日。
木枠に張った和紙の両面から墨・アクリル絵具・油絵具などで描かれた作品で構成される、木下拓也の個展。
展示作品中最大画面の《drawing in masterpiece》(1167mm×803mm)は、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の傑作《ラス・メニーナス(Las Meninas)》(1656)に取材した作品。木枠に張った和紙に《ラス・メニーナス》の舞台と登場人物とを取捨選択して描き出している。ベラスケスの肖像画をモティーフとした《Dの肖像》(455mm×380mm)――"Diego"の肖像だろう――、《Vの肖像》(455mm×380mm)――"Velázquez"の肖像だろう――が展示されていることからも、本展の中核となる作品であることは疑いない。
《ラス・メニーナス》のカンヴァス(縦318×276センチメートル)は2ヵ所で継ぎ目の線が上下に走っている。当時はこの大きさの画布を製縫〔引用者註:「縫製」か〕する技術がなく、3枚の縦長の画布を縫い合わせてできている。この巨大な画面において、「雰囲気の魔術」と称讃されまったく自然らしい空間内に、人物がほぼ等身大で登場している。彼らのうち、何人かの視線は画面の前方に注がれており、壮大な室内空間に誘われて、私たち鑑者もまた、絵画(フィクション)と現実(リアリティー)との絶対の深淵を踏み込〔引用者註:「越」か〕えて絵画と同じ世界に生きているかのような錯覚にとらわれるだろう。19世紀フランスの文学者テオフィル・ゴーティエ(1811-72年)が「絵はどこから始まるのか!」と驚嘆したように、絵画と現実との境界が撤廃された、演劇的なバロック空間なのである。
(略)
前景右からマスティフ種の猛犬、そこに片足をかけた矮人の少年ニコラス・ペルトゥサート、その隣に同じく矮人で忘れがたい風貌のマリ=バルボラ(共にマルガリータの遊び相手とされる)。正面にはマルガリータ王女、その左に赤い水壺を差し出すマリア・アグスティーナ、王女の右側にイサベル・デ・ベラスコ、共に高位の貴族出身の王妃付き女官である。薄闇の中景では、左端にベラスケス自身、その反対側に名前不詳の廷臣と、彼にささやく尼僧姿の王妃付き女官係マルセラ・デ・ウリョア。さらに奥の階段上に、王妃付き装飾頭で王宮配室係のホセ・ニエト・ベラスケスがカーテンの方に右手をのばしてたたずむ。この明るい開口部と対をなし、全画面のほぼ中央に位置する平面鏡は国王夫妻の姿を映し出してる。彼らのうち、何人かが視線を向け、ポーズをとるその相手は、絵の前に立っているはずの国王夫妻であり、その姿を我々は画中の背後の鏡のなかに見出すのである。(大髙保二郞『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』岩波書店〔岩波新書〕/2018/p.202-204)
《drawing in masterpiece》では、手前にマスティフ種の犬、矮人のマリ=バルボラ、マルガリータ王女とその右に傅くイザベル・デ・ベラスコなどが描かれている。他方、《ラス・メニーナス》の作者ベラスケスの姿は無い。
この絵〔引用者註:《ラス・メニーナス》〕の導入部をなす大画布はその裏側しか見せてくれず、何を描いているかは永遠に謎であろう。この問題に関してこれまでも限りないストーリーが組み立てられ試みられた。例えば、パロミーノは、「我々には見せてくれない制作中の画布は、我々の側に立つ国王夫妻を描いており、鏡をとおして我々に提示される」と解釈する。しかしここで想起すべきは、本作は現実に即しつつ、最終的には卓抜で比類無い構想画に高められた「絵画のミクロコスモス」だということである。その構想の真の意図は、王室内の1室で、王家グループに囲まれて制作する画家の内密な情景の提示にある。従って前景の大画布は、幾何学的な秩序の右側壁面と対応し、驚くべき記念碑性を絵に授ける一方、高貴な職に携わる画家へのアトリビュートとして意味づけるべきであろう。(大髙保二郞『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』岩波書店〔岩波新書〕/2018/p.220)
《drawing in masterpiece》の作者はベラスケスではない。ましてベラスケスを貴顕と賞揚する必要もない。そのためにベラスケスは省かれたのであろう。
注目すべきは、奥の壁にかかる鏡に映り込んでいた国王と王妃が、後ろ姿の全身像として白い輪郭線で画面3分の2ほどの大きさで重ねられている点である。
ところで、《drawing in masterpiece》の反対壁面に飾られているのは、漫画の登場人物のようなツインテールの少女と劇画調のサングラスの強面の警官らしき男とを描いた《見えない相手》(530mm×410mm)である。木枠が透ける和紙に斜めに墨を刷き、ピンクの髪の少女の顔と青い制服を身につけた男の胸像とを描いた上から、少女の全身像が重ねられている。鑑賞者に画面に表わされたキャラクターは見えている。すなわち「見えない相手」ではない。他方、キャラクターたちは鑑賞者に対して眼差しを送り返さない。キャラクターたちは鑑賞者を見ていない(見えていない)という点で、鑑賞者は「見えない相手」となる。それは、鑑賞者に対し「見えない相手」に対峙していることが示唆する。作家が敢て半透明の支持体(和紙)にイメージを表わしているかと言えば、イメージの背後からの眼差しを表わすためではないか。画面のイメージに囚われる――表面をなぞる――ばかりで作家の意図を汲もうとしない鑑賞者を見詰める作家、それこそが「見えない相手」ではなかろうか。
翻って、《drawing in masterpiece》の国王夫妻をゴーストのよう重ねるのは、王女たちが国王夫妻に見られていること、その国王夫妻もまたベラスケスに見られているという、まさに見ることは見られることだという双方向性を示すのだ。のみならず、ベラスケスを画面に含めないことで、画家が「見えない相手」であることを暗示するのである。
《drawing in masterpiece》の画面には、さらに黄、ピンク、青などで無数の顔が散らばっている。画布がスマートフォンやPCのディスプレイのメタファーならば、画面の向こうにいるインターネット空間に存在する無数の「見えない相手」を表わすことになるのではないか。その「見えない相手」も含め我々は、ヤニス・バルファキス(Γιάνης Βαρουφάκης)が『テクノ封建制(Technofeudalism)』の指摘するところのプラットフォーマーに情報を差し出す農奴に過ぎない(内田麻理香「ヤニス・バルファルキス『テクノ封建制』」毎日新聞2025年4月12日土曜日10面「今週の本棚」参照)。あるいは、作家は、歴史を失った我々に、顔が象徴する死者たちの声を聞くように促すのかもしれない。