映画『解放』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の日本映画。
22分。
監督・脚本・企画は、芋生悠。
撮影は、岩澤高雄。
照明は、斉藤徹。
衣装は、小山田孝司。
ヘアメイクは、TSUKI。
編集は、小笠原風。
サウンドデザインは、芋生悠と小川未祐。
劇音楽は、小川未祐。
整音・音響効果は、柳田耕佑。
音具提供は、渡辺泰幸。
音具指導は、永田砂知子。
人気のない山道を女(芋生悠)が1人歩く。
部屋。片隅はビニールで養生され、画材が置かれている。女が腰を降ろし、パレットに絵具のチューブを搾り、刷毛に取る。木枠に張った画布の右上に刷毛を走らせる。画面の全体に絵具を塗り拡げていく。右下の辺りを僅かに塗り残した所で手を休める。ペットボトルを手に取り水を飲む。缶の中に蝋を入れ、カセットコンロの火にかける。床に置いた画布の中心辺りに溶けた蝋を垂らす。
山道を歩いていた女が渓流に向かって斜面を降りていく。岸に立つと近くの岩場に白い衣装を纏う女(小川未祐)がいるのに気付いた。彼女が踊り出す。女は踊る女の方へ近付く。踊る女も歩き出す。彼女は岩肌を叩き、枝先の葉に触れ、川の水を掬って飲む。女も川辺に坐り込み、掌に救って水を飲む。振り向くと、彼女の姿は消えていた。
何か新しいものを生み出さなくてはならないという強迫観念に囚われていた絵描きの女(芋生悠)は、沢歩きの際に見た(幻視した)踊る女(小川未祐)に触発され、見るもの、聞くもの、触れるもの全てがそのままで表現であることを悟る。
(以下では、全篇の内容について言及する。)
渓流に転がる巨大な岩が象徴的に登場する。岩はいかにしてそこに存在するに至ったのか。岩がその場に存在する経緯の地質学的スケール。その岩を目にし、触れることのできる僥倖。渓流の踊り子すなわち妖精は、あらゆる存在との出会いが奇蹟であることに気付かせてくれるのだ。否、創造に対する強迫観念に囚われていた絵描きは、自らが存在する環境に対して自らを開くべきだとの霊感を得て、見るもの、聞くもの、触れるものを感知するようになったことを踊り子により擬人化したのである。
映画と組み合わせて監督が朗読を行うのは、その場限りの出会いが奇蹟であることを鑑賞者に気付かせるためである。自らの霊感を鑑賞者と分かち合おうとするのだ。
巨大な岩は、あらゆる光景を目にしてきた、言わば記憶装置(medium)である。宮沢賢治が「気のいい火山弾」で表現したことに通じる。
(略)賢治はこの石をベゴ、すなわち「牛」と呼び、農民たちの長い経験のなかで牛を媒介にして感じとられてきた慈愛の感情を、まっすぐに火山弾へとさし向けています。深い愛情です。深い共感であり、さらにいえば深い共苦(コンパッション)の感情です。噴火や、地震や、日照りや旱魃とともに生きてきた、東北人たちの悲嘆と痛苦の経験が清水に濾過されるようにしてあらわれる、ととても純粋な愛の発露です。
ベゴ石の語りは、火山弾こそが、人間の知りえぬ、あるいは知ろうとしてこなかった真実を語ることができるという賢治の野生への信仰が生み出したものです。実在物がそこに存在していることの真の意味、それは火山とその分身である火山弾の声をつうじてしか知りえない、もっとも深遠な秘密なのだと賢治は考えているのです。
(略)
〔引用者補記:アルド・レオポルドは〕『サンド・カウンティの暦』のmなかの「山が考えるように考える」と題された一節で、レオポルドは次のように書いています。(略)
(略)「山だけが、オオカミたちの遠吠えを客観的に聴くことができるほど長生きをしてきた」のです。レオポルドがオオカミと目を合わせた瞬間、彼は、すべてを目撃してきたものが、オオカミと人間とがともに生かされてきた「山」であることを知りました。人間はみずからの共同性の境界を広げ、そこに土や水や森や山や獣たちを含めなければならない。そのなかで、有機体と非有機体とが一体となって世界の倫理と美とがつくられていることを検挙に認めなければなrない。これがレオポルドの思想の根幹です。日本列島を考えるならば、その歓喜と悲嘆の共同体のなかに、いうまでもなく火山も含まれることは疑いない真実なのです。
「山だけが、火山弾の嘆きを客観的に聴くことができるほど長生きしてきた」。レオポルドの深い言葉を、いま私たちは賢治をつうじて、このように言い換えることも可能なのではないしょうか。賢治は、ベゴ石と目を合わせ、その丸く黒い筋のある顔貌のなかに、人間の知りえぬ実在世界における真実の声を聞きとったのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.29-31)
踊り子は岩の声を聴き取る霊媒(medium)である。すなわち、踊り子は、絵描きが「人間の知りえぬ実在世界における真実の声を聞きとった」象徴なのである。岩の声を聴き取ることができるなら、森羅万象の声を聴き取る可能性が開ける。その「開かれ」が、絵具で塗り潰された画布から、刷毛を動かすだけで絵の具を塗り付けない画面への転換によって示される。「解放」が達せられたのである。
芋生悠は映画『ソワレ』(2020)のイメージが鮮烈だ。映画『解放』の上映後に舞台で朗読を始めた女性は芋生悠であったが、『解放』の絵描きとも全く異なるイメージであったため、朗読の専門家だと思ってしまった。