可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『片思い世界』

映画『片思い世界』を鑑賞しての備忘録
2025年製作の日本映画。
126分。
監督は、土井裕泰
脚本は、坂元裕二
企画は、孫家邦、菊地美世志、那須田淳
撮影は、鎌苅洋一と小林拓。
照明は、秋山恵二郎。
録音は、加藤大和。
美術は、原田満生と佐久嶋依里。
装飾は、石上淳一。
衣装は、立花文乃。
ヘアメイクは、豊川京子と宮崎智子。
編集は、穗垣順之助。
音楽は、鈴木慶一

 

一面の雪に足跡が残る。雪がちらつく中、男が歩いている。男が向かう先にある建物からはピアノが聞こえる。
かささぎ児童合唱クラブ。小学5年生の高杉典真(林新竜)は明日に迫ったこども合唱コンクールに向けてピアノの練習に余念が無い。テーブルでは典真の同級生の相良美咲(太田結乃)がテーブルに向かい、必死に書き物をしている。集中する美咲はお腹の音が鳴るのも、ピアノが止んだのも気付かない。美咲がノートを閉じる。音楽劇『王妃アグリッピナの片思い』を遂に完成させた。台本書けたよ! ご満悦の美咲が振り返ると、ピアノの前から典真は姿を消していた。合唱クラブのメンバーがガヤガヤと入って来た。高杉典真は? 見てないよ。典真! 美咲は典真を探しに建物を出る。雪が積もり人気が無い。ピロティで全身黒ずくめの男にぶつかった。ごめんなさい。美咲は皆のもとに戻る。典真知らない? 1つ年下の片石優花(吉田帆乃華)に尋ねるが知らないと言う。優花より1つ年下の阿澄さくら(石塚七菜子)がラムネ菓子を落としてしまう。美咲と優花が拭いたら大丈夫と床から拾って食べる。美味しい。さくらも口にする。ね? うん。クラブのリーダーの少女が皆に声をかける。明日の本番は時間ないと思うから今からみんなで写真撮ろう! 皆が三脚のカメラの前に集まる。リーダーがカメラのタイマーをセットする。あの、典真が…。美咲が声をあげる。そのときドアが開く。典真? 皆がドアの方を向いたところでシャッターが切れた。
12年後。夜の繁華街を阿澄さくら(清原果耶)が早足に歩く。母親に抱かれた小さな子供がぬいぐるみを落とす。さくらは素通りする。近くにいた男性が落ちましたよとぬいぐるみを拾い上げて母親に渡す。脇道に入り、バスケットボールのゴールの前を抜け、木立の中にある古い洋館へ。
ただいま。待って、まだただいまじゃないから。片石優花(杉咲花)が帰宅をやり直すようさくらにお願いする。サプライズか。相良美咲(広瀬すず)も出てきてさくらを止めようとする。どいて。2人を押しのけさくらが居間に入ると、さくらの誕生日を祝う飾り付けがされていた。一生サプライズ向いてない、毎回騙されたフリする身にもなってよ。今日で二十歳でしょ。ケーキに立てた蝋燭に灯を灯す。お誕生日おめでとう! フゥーって。蝋燭の火を消すよう促すが、さくらは無視して階段を上がっていく。私たち嬉しいんだよ。家族でもないのに。ずっと3人で暮らしてきたでしょ。さくらは美咲のTシャツが裏表逆になっていること、優花がトイレのスリッパを履いていることを指摘して立ち去る。…またバレたじゃん。ケーキどうする?
美咲と優花が寝室に向かうと入れ違いにさくらが出て来る。どいて。反抗期なんだよ。長すぎないか? 2人が寝室に入るとそれぞれのベッドに手紙が置かれていた。美咲にはおめでとうと言われるよりありがとうと言いたいと、優花にはこれからも一緒だよとのさくらからメッセージだった。サプライズか! やられた! 寝室に戻ってベッドに横になったさくらの隣へ美咲と優花が嬉々として潜り込む。おめでとう! ありがと。
朝。ベッドから落ちるほど寝相の悪い3人。6時になりました。津永悠木(松田龍平)です。まずこの1曲から。関東地方、晴れのち雨。高気圧の影響で陽差しが届きますが、夕方には激しい雨となるでしょう…。ラジオを聴きながら3人が慌ただしく支度を始める。美咲が作った弁当をさくらに渡す。お昼はカレーフェア。カレーの後に食べればいいでしょ。大学芋を食べるから。大学芋は明日でいいでしょ。私のノート知らない? 優花が2人の会話に割り込む。7時になります…。3人はお互いにハイタッチしてから家を出て、木立を抜ける。
バス停にバスが来ていた。美咲とさくらがドアの前に到着したところでドアが閉まる。2人は運転手にアピールするが運転手はドアを開けない。そこへ青年(横浜流星)がやって来ると、ドアが開いた。やったぁ! 美咲とさくらが喜んで乗り込む。
美咲とさくらは青年の斜め後ろの座席に坐る。あの人またアホ毛出てるよ。指差さない!
優花は大学の階段教室で素粒子物理学の講義を受ける。教授(金子清文)はスーパーカミオカンデでは検出の難しいニュートリノを捉えようとしていると説明する。優花は「人類は世界の一部しか見えていない」という言葉に感銘を受ける。
さくらは水族館のペンギン舎で床にブラシをかけている。やめない方がいいって。村上直行(尾上寛之)が後輩の加村大翔(諏訪珠理)に言う。向いてないです。ペンギンに心を開かないと。一緒に頑張りましょうよ。さくらも大翔を励ます。
美咲はオフィスでPCに向かう。男性社員(名村辰、長谷川ティティ)が段ボールに一杯のファイルを運んでくる。業務中、すいません。今週中に手打ちでデータ入力しろって。どなたかお願いできませんかね。誰も名乗り出ない中、美咲は段ボールからファイルを取り出し、入力を始める。
優花がキャンパスを歩いていると、ダンスサークルがパフォーマンスを撮影している場面に出会す。協力お願いします! 周囲の学生が手拍子をするのに優花も加わる。そのとき母・片石彩芽(西田尚美)が通りにいるのに気付く。彩芽は生花店fanのヴァンに乗り込み走り去った。ママ…。
居酒屋。美咲の職場の懇親会が行われている。犬の散歩に行ったらさ、なんでお前は俺のうんこ集めてんのって犬に言われてさ。ない? 課長(川島潤哉)の話に白ける部下たち。幹事の女性(影山祐子)が1人3500円でお願いしますと会費を徴収する。美咲はトイレに立つ。美咲が洗面台の前に立っていると、酔った女性(小島梨里杏)が駆け込んできた。大丈夫ですか? 余裕の無い女性は個室に倒れ込むように入る。美咲が座敷に戻ると職場の面々は誰一人残っていなかった。
美咲はスーパーに立ち寄る。ジャガイモをカゴに入れる。バスで一緒になる青年が惣菜の品出しをしている。美咲はやや離れた位置から彼の作業を眺めた。
バス。青年が第39回こども合唱コンクールのポスターを見詰めている。美咲は彼の姿を見守る。
バスを降りて青年の後ろ姿を見送る美咲。うちこっちだけど。さくらが美咲に声をかける。バスで遭うだけの人に片思いなわけ?

 

不動産会社に勤務する相良美咲(広瀬すず)は、大学で物理学を学ぶ1つ年下の片石優花(杉咲花)、水族館のペンギン舎を担当する2つ年下の阿澄さくら(清原果耶)と古い洋館で姉妹のように暮らしてきた。さくらの二十歳の誕生日を3人でお祝いする。美咲は通勤のバスで一緒になる青年(横浜流星)に密かに想いを寄せている。美咲と同じバスに乗るさくらは遠くから眺めるばかりの美咲に焦れったくなり、彼のスマートフォンを盗み見てデートの情報を摑み、美咲を連れてピアノのコンサートに向かう。青年をデートに誘った桜田奈那子(小野花梨)を一方的に敵視するさくらは彼女の通話を立ち聞きし二股をかけていると静かなコンサート会場で言いふらす。
12年前。小学5年生の相良美咲(太田結乃)は同級生でピアノに秀でた高杉典真(林新竜)から誘われ「かささぎ児童合唱クラブ」に入会した。片石優花(吉田帆乃華)と阿澄さくら(石塚七菜子)とはそこで知り合った。合唱コンクールを控えた前日、美咲は音楽劇『王妃アグリッピナの片思い』を完成させ、典真に曲を書いてもらおうとしていた。ところが一緒にいた典真が姿を消してしまった。
美咲が想いを寄せる青年は典真その人だった。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

3人はあることがきっかけとなって、かつていた世界とはややズレた位相にある世界にいる。3人は元の世界を眺めることができるが、元の世界の人たちに何の影響も与えることができない。さくらが帰宅の途次、子供の落とした人形を拾わないのは、さくらは人形を拾えないし、落としたことを母親に伝えることもできないからだ。3人のいる世界は、元の世界対して一方的に思いを寄せるだけの、片思いの世界である。
自動車に置き去りにされた幼児に気付いた美咲らは、通行人に助けを求める。聞いてもらえないことが分かっていて声をかけ続ける。この映画を象徴するシーンだ。美咲は典真に、届かない声を届けようとし続けるからだ。美咲らが同じ世界にいられなくなった責任を典真は背負いこんでいるが、美咲はそんな責任は負わなくていいと伝えてあげたいのだ。
ホラー映画に登場する幽霊(鉾久奈緒美)を見て、3人は当初、こんなんじゃないと笑う。だが自分たちが3人一緒でいなかったら、日常生活を送ることを続けていなかったら、元の世界を目にしながら声を届けることができないことを気に病み、おどろおどろしい姿に変じていたのではないかと身につまされる。
3人は元の世界からズレた世界に監禁されているのだ。監禁された状態でいかに生き延びるのか。生き延びるために必要なのは変化=時間だ。誕生日や柱の瑕に示される成長、何よりサプライズに対する嗜好。閉鎖環境を変化に富ませるのだ。フランシス・ホジソン・バーネット(Frances Hodgson Burnett)の『秘密の花園(The Secret Garden)』において監禁された子供が植物を育てることで生き延びたこと想起させる。
美咲は家庭環境に恵まれず、貧困に喘いでいた。そんな美咲を見かねた典真は美咲をかささぎ児童合唱クラブに誘ったのだ。こども合唱コンクールの前日、典真が美咲の前から姿を消したのは、美咲が空腹に悩まされているのに気付いて買い出しに出たためだった。典真の豊かな感性は音楽についてだけではない。
優花は母・彩芽が再婚し、海音(清水珠愛)という娘がいることを知りショックを受ける。彩芽が海音とクッキーを焼く様子を眺め、彩芽は星形のクッキーを選ぶだろうと予測して当てる。自分は三日月のクッキーがいいと思う。後に、三日月のクッキーは、彩芽が優花のことを忘れたことはないことの象徴として劇的に画面に登場することになる。
優花は元の世界に戻るために必死だ。美咲が自分ほど気乗りしていないのを知ると、美咲が苦しい生活を送っていたから元の世界に戻りたくないんじゃないかと言い放つ。美咲は優花の言葉に深く傷ついただろう。だが美咲が怒りを表わすことはない。優花の彩芽に会いたい気持ちが嵩じてのことだと分かっているからだ。
いつか奇蹟が起きることに賭けて、届かない声を上げ続けること。美咲らは表現に携わる者のメタファーである。