展覧会『大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす』を鑑賞しての備忘録
神奈川近代文学館にて、2025年3月20日~5月18日。
遺族らから受贈した詩人・評論家の大岡信(1931-2017)の資料「大岡信文庫」を中心に、大岡信の事績を紹介する企画。大まかに時系列に沿う、序章「舞い、あらわす」、第1章「生まれ、生きる」、第2章「出で、立つ」、第3章「和し、合す」、第4章「うつし、つなぐ」、終章「伝え、結ぶ」の6章で構成。
序章「舞い、あらわす」では、大岡信の書を紹介。「ひとはみずから遥かなものを載せて動く波である」、「森の谺を背に此の径をゆく 次なる道に出会うため」など。
第1章「生まれ、生きる」では生い立ちを紹介。静岡県田方郡三島町(現、三島市)の小学校教師の家に生まれた。父は窪田空穂に師事し、歌誌「菩提樹」を主宰した大岡博。旧制静岡県立沼津中学校在学時は学徒動員で軍需工場に通う。「果てしなく続くものと思いこんでいた戦争がとつぜん終結し」、父の蔵書を意識して読み始め(『詩への架橋』)、同人誌『鬼の詞』を発行した。旧制中学を4年で修了し飛び級で旧制第一高等学校へ。フランス語教師・寺田透によって、フランス語の一語一語が持っている手交換、物質的な手触りとでもいうべきものに対して目が開かれたという(「自然の産出力を抽象言語で」)。寮内誌『向陵時報』に詩を投稿。日野啓三、佐野洋らの友人ができた。進学した東京大学では『現代文学』(1951-1952)を創刊。創刊号にポール・エリュアール(ポール・エリュアールPaul Éluard)の訳詞を寄せた。エリュアールの詩では"Et le ciel est sur tes lèvres."の一行に感銘を受けたという。『現代文学』3号には菱山修三論を投稿。卒業論文は、沈鬱な時期に『行人』を読んだことをきっかけに『夏目漱石論 修善寺吐血以後』(1952)。
1945年の敗戦は、戦後の思想の潮流を再び昭和初年代へとほとんどそのまま繋いだ。左翼なり新左翼において、柳田国男や折口信夫がなお研究すべき対象として注目され続けたのにはそういう背景があったといっていい。いずれにせよ戦中期をのぞいて、昭和初年代、20年代、30年代においては、民衆や大衆、集団や共同社会は、特異な光彩を放つ言葉だったのである。(略)
(略)だが、当時の青年に、物を考えるときの基軸のひとつとして、つねにマルクス主義が、とりわけその人民主義、集団主義があったことは忘れてはならないだろう。山本〔引用者補記:健吉〕は折口のみならずT.S.エリオットにもしばしば言及しているが、エリオットの伝統主義の背景にも同じ問題が潜んでいたと私には思われる。そして、ここにも民俗学の鼻祖、J.G.フレイザーが介在していること――エリオットの場合には詩の霊感源にさえなっていること――を忘れてはならない。(p.143)欧米においても、はじめ植民地主義の派生物ぶすぎなかった民族学や人類学が、やがてマルクス主義への対抗馬になり代替物になったことを忘れてはならないのである。
こうしてみれば、大岡と山本の違いが歴然としてくる。おそらく山本も池田も、そして彼らと並ぶ折口門下の面々も、こういったことは露ほども考えていなかっただろう。だが、彼らの思考の背後に、マルクス主義の流行によってもたらされた民衆礼賛、集団礼賛とでもいった風潮がおもいのほか色濃く流れていることには十分注意する必要がある。(略)
(略)
また、大岡が、敗戦後、隆盛をきわめていたマルクス主義にほとんどまったく惹かれなかった理由のひとつに、父が、窪田空穂門下の歌人であると同時に、静岡県日教組の委員長を務めるほどの、いわゆる筋金入りの左翼であったことが挙げられることなどのついても、詳しく触れようとは思わない。要するに大岡はその10代において左翼の生態を、学校の内と外からつぐさに見ていたのである。
大岡はまた、左翼のみならず右翼に対してもいわば強い免疫を持っていた。大岡自身が繰り返し書いていることだが、大岡の詩的出発点は、戦後旧制中学校時代に結成した「鬼の詞」という同人誌にあった。そしてこの同人誌を指導した教官が復員兵で、戦前戦中に日本浪曼派の強い影響を受けた青年だったのである。(略)
つまり、大岡は戦後になって――距離すなわち俯瞰する眼をもって――戦中の思想を若く新鮮な頭脳で咀嚼していたのである。大岡が、人民、国民、民衆、共同体、共同社会といった語彙をほとんど使わないことには理由があったとうべきだろう。彼には集団と個という語彙で十分だったのだ。そしてその集団はつねに、個性をもった諸個人の集まりでなければならなかったのであって、のっぺらぼうの人民大衆や共同体員ではありえなかった。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.143-145)
第2章「出で、立つ」は、1953年8月「現代詩試論」で詩壇に華々しく登場し、1954年5月「戦後詩人論 鮎川信夫ノート」で戦後詩を痛烈に非難して注目を集めたことから始まる。1930年前後に生まれた詩人が詩壇に登場した1950年代を「感受性の祝祭の時代」と評している。詩誌「櫂」の同人と交流し、谷川俊太郎とは生涯の友人となる。「シュルレアリスム研究会」に関わったことをきっかけに美術評論も手掛けることに。詩誌『鰐』(1959-1962)に寄稿。大岡かね子(劇作家としては深瀬サキ)との交際でメランコリックな作風がみずみずしい文体へ変化したという。「私はすべてに『いいえ』と言った。けれどもからだは、躍りあがつて『はい』と叫んだ。」(「うたのように 3」『記憶と現在』)。1978年12月には出会いから30年、結婚20年を迎えた大岡かね子への愛を歌った詩集『春 少女に』(1978)を刊行している。書誌山田から発刊した『遊星の寝返りの下で』(1975)や『透視図法―夏のための』(1976)は加納光於が、花神社発行の『火の遺言』(1994)『光のとりで』(1997)は熊谷博人が、それぞれ装幀しているが、古びないデザイン。
〔引用者補記:大岡信と折口信夫とが〕本質的な点で似ているというのは、たとえば、単刀直入に対象の核心に切り込むところがそうである。近づき方が似ている。まず直観があり、その直観を吟味する。これは誰でも同じだろうが、その直観が深く鋭く、吟味する過程がスリリングなのだ。その過程を書くところも似ている。(略)
大岡のその流儀は22歳の作「現代詩詩論」にすでに明らかである。
「詩について散文で語ることは至難である。どこにもこれら2つの関係が完全に融和している模型はないし、そういしたものがありうるかどうかもわからない。そこにはいつでも手さぐりの歩みよりがあるばかりだ。ヴァレリーが自作について語ったものがいい例だ。彼は決して自作の詩のすべてをつかんではいない。むしろ、つかめないことによって彼は「海辺の墓地」という詩をもっともよく説明したともいえるのだ。」
逆説である。詩人は自分の書いていることが何であるかほんとうは知らないのだと述べているのだ。だからといって批評家に可能かといえば、それもあやしいというのだ。いわば書くことの不可能を書いているようなものである。まさに真実というほかないが、しかし22歳の詩人にいえるような言葉ではない。(略)
折口が一般読書人に向けて観光した最初の本は『古代研究』である。(略)最初に書かれた〔引用者補記:「国文学の発生」〕第一稿を引く。(略)。折口、37歳。
日本文学が、出発点からして、既に、今ある儘の本質と目的とを持つて居たと考へるのは、単純な空想である。其ばかりが、極微かな文学意識が含まれて居たと見る事さへ、真実を離れた考へと言はねばならぬ。古代生活の一様式として、極めて縁遠い原因から出たものが、次第に目的を展開して、偶然、文学の規範に入つて来たに過ぎないのである。
逆接というか、転倒である。文学は、偶然、文学になったにすぎない。それははじめ、たとえば神語としてあったのだ。にもかかわらず文学を自明とするものと考えるのは愚かである、というのだ。すなわち、折口は日本文学の起源を転倒に見出しているのである。(略)
折口はむろん、文字通りの真実を語っているにすぎない。それがしばしば転倒を語ることにならざるをえないのは、言語が介在するやいなや、視覚的空間的な真実を――それを記憶するためにも――聴覚的時間的な秩序に移行させなければならなくなるからである。転倒しなければ語れない真実を、言語がもたらしたのだ。
(略)『古代研究』全3巻のなかで最初に刊行された第2巻「民俗学篇第一」の「ほうとする話」から一節を引く。
蓋然から、段々、必然に移つて来てゐる私の仮設の一部なる日本の祭りの成立を、小口だけでもお話ししてみたい。芭蕉が、うき世の人を寂しがらせに来た程の役には立たなくとも、ほうとして生きることの味ひ位は贈れるかと思ふ。
(略)
ところで、ほうとして生きるとはどういうことか。直前の一節を引く。
ほうとしても立ち止らず、まだ歩き続けてゐる旅人の目から見れば、島人の一生などは、もつともつと深いため息に値する。かうした知らせたくもあり、覚らせるもいとほしいつれづれな生活は、まだまだ薩摩潟の南、台湾の北に列る飛び石の様な島々にはくり返されてゐる。でも此が、最も正しい人間の理法と信じてゐた時代が、曾ては、ほんとうにあつたのだ。古事記や日本紀や風土記などの元の形も、出来たか出来なかつたかと言ふ古代は、かういふほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであらう。
(略)
逆接といい転倒といい、「かういふほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであらう」と言い換えても、おそらく許されるだろう。逆接も転倒も言葉の極致、論理の極致であって、ほうとした気分の正反対ではないかと思われるだろうが、そうではない。逆接や転倒こそが、むしろ「ほうとした気分」に人を誘い込むのである。それが理解するということなのだ。
折口の歌、大岡の詩のいたるところにこの気分を見出すことがでいいるが、ここでは引かない。ただ、『うたげと孤心』を貫く1本の糸がじつはこの「ほうとした気分」であることは指摘しておきたい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.147-152)
第3章「和し、合す」は、『うたげと孤心』(1978)が核。近現代の文学に欠けているのは、他者と創作を通じて協調し感興をともにする境地「うたげ」である。但し、その前提として、ひとり黙考し至る境地「孤心」がなければならない。「うたげ」の実践として、連句(安東次男と丸谷才一ともに始めた「歌仙の会」)、連詩(トマス・フィッツシモンズらと国内外で)の企てがある。
「うたげ」は集団に対応し「孤心」は個に対応すると考えるのは自然である。とりわけ近代においては自然だ。黙読が文学享受の大きな部分を占めるようになったのは日本においても近代以降、それもほとんど20世紀に入ってからといっていいが、この新しい伝統は文学享受の中心を「孤心」に置くことを強いた。
強いたとはいっても、眼に見える力によって強いたのではない。人は、意識としてはきわめて自然に、個室にこもって孤独に本を読むようになったのである。(略)いつしか、孤独な意識すなわち「孤心」が、読書さらには思考の前提になってしまったといっていい。
この享受の仕方が文学の理解を大きく変えてしまったのではないか。「うたげ」に対する大岡の関心は、まずその疑問から始まっている。
(略)
考えてみれば自明だが、個性すなわち自分と他人との違いは、まず、そのような「うたげ」の場で比べられてのみ形成され発揮されるのである。離れ離れの「孤心」においては個性の次元そのものがありえない。結果的に、個性を狙う「孤心」は新たな「うたげ」の場すなわちジャーナリズムなりアカデミズムなりを形成することになるわけであり、それが「うたげ」の変質をもたらし、この新たな「うたげ」がさらに新たな「孤心」を形成する。こうして近代的な「孤心」すなわち近代的な孤独なるものが登場することになるわけだあが、大岡が問題にしているのはしかし「うたげと孤心」んも変容ということではない。むしろ、その変容さえも、「うたげと孤心」に包み込まれているのではないかということである。(略)
大岡は、煎じ詰めれば、人間が憑依する存在であること、それが言語の働きであることを問題にしているのだ。自己とは、自己が自己に憑依することにほかならない。驚くべきことに誰もが私なのだ。そしてそれは「私は誰でもありうる」ということなのである。額田王の歌を読むとき、人は額田王になるのだ。
人の心は信じられないほど可塑的であるというべきである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.160-166)
第4章「うつし、つなぐ」では、近現代の文学の問題に真っ向から取り組むために古代の文学に学んだことが示される。政治の敗者たちは詩歌の伝統を脈々と伝え続けてきた。紀貫之は詩歌の仮名書きという革命を背景に「てにをは」を駆使して暗示性に富んだ詩歌の世界を生み出した。菅原道真は唐の文字と詩法に則って和の心情を描こうと、和歌を漢詩に変換する試みにより和漢のギャップを埋めようとした。とりわけ道真が直面していた問題は、文明開化により欧米の文学、芸術、音楽が日本のそれらに惹起した影響とパラレルである。朝日新聞の一面に掲載されたコラム「折々のうた」(1979-2007)は、読者が日常的に詩歌に触れる機会を提供した。最終回は田上菊舎の「薦着ても好きな旅なり花の雨」。「素晴らしいブーケである。しかも1輪1輪すべて誘惑であって、そこからさらに広大な花園の奥へと歩み入るよう促しているのだ。」と本展編集委員・三浦雅士が称えている。
1983年に西武美術館で開催された「菅井汲展 疾走する絵画、明快さの彼方へ」に関連して、「人は行為の繰り返しを避けることはできないが、繰り返しをたえず未知の戦慄にさらして生きることはできる」と記している(「円盤上の野人 菅井汲」)。