可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『石に遊ぶ―愛石家たちの想像と創造』

展覧会『日比義也コレクション名品展 石に遊ぶ―愛石家たちの想像と創造』を鑑賞しての備忘録
會津八一記念博物館〔會津八一コレクション展示室〕にて、2025年3月24日~5月25日。

日比義也から寄贈された盆石を描いた書画のコレクションから20点ほどを展観。「愛石家たちが記した『石記』」と「文人たちの愛石趣味」とで構成。参考として唐石が1点展示される。出展作品のカラー図版に詳細な解説を付した図録の無料配布(数に限りあり)も嬉しい(掲示されたキャプションの要点を搾った解説も良い)。

室町時代中期以降、霊峰、瀑布などの景観に見立てた石に銘を付けて鑑賞する文化が普及した。江戸時代中期以降には、中国文化に傾倒し学問や諸芸に通じて風雅の道を究める文人たちが三都を中心にネットワークを形成したが、彼らは多く愛石家でもあった。明治時代中期以降、「盆石」は、1つの石に山水を見出す「水石」と、盆の中に複数の石や砂を配するジオラマ風の「盆石」とに区別されたが、それ以前には明瞭な区別なく楽しまれたという。

細川林谷《盆石図巻》(196mm×4051mm)は盆石のコレクションを描いた巻子。簡略化した描き方や石ごとに描かれるスタイルが異なっていることから、手控えとして描かれたらしい。椿椿山は《石譜逸品巻》 (286mm×5249mm)は石譜を模写したもので描法研究のために制作されたらしい。一覧できる巻子は愛石趣味、蒐集欲を偲ばせる。
山元春挙《富貴万年図》(1140mm×354mm)は、湖水の浸食による穴のある太湖石と富貴の象徴である牡丹とを組み合わせた掛軸であり画石ならではの組み合わせを楽しめる。

鏑木雲潭《米芾拝石図》(264mm×322mm)は、米芾が赴任先の庭にあった奇石に正装して礼拝したという故事を描く作品。徽宗のコレクションに関与したとも言われる米芾は流石慧眼である。凡俗こそ奇行と捉えたが、芸術家たちは人間のスケールの及ばない悠久の営みを経た石に神仙を見出した米芾に倣い、画題とした来たのだ(木下順庵《養老石記》に見える儒教道徳の発想も根底にあるのだろう)。
井本竹雨《高士観瀑図》(1305mmm×414mm)は、竹林と瀑布の中で寛ぐ高士たちを描いた作品。文人たちが理想郷を観想する「臥遊」が画題であるが(「臥遊など文人の生活を取り上げた泉屋博古館東京の『楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス』(2023)は出色で、愛石の紹介なされた)、画面の中心を占めるのは奇岩であり、岩を見るための作品と言える。小泉斐画《盆景石画図》(1199mm×380mm)は羽を手にした男が盆石で砂に波を表わそうとする場面を描く。枯山水のミニアチュールとして、宇宙を再現しようとしているのである。

 フランスの思想家ロジェ・カイヨワは、自らの石のコレクション(風景石、瑪瑙、セプタリアなど特異な模様を持つ石)についての論考『石が書く』のなかで、こんな文章を著している。
「このような出会いは錯覚ではなく通告である。それは宇宙という織物はひとつながりであり、世界の巨大な迷宮のなかで、地理学のいう対蹠地よりはるかにかけ離れた対蹠地からやってきた相容れない歩みが、どこかの十字路で遭遇しないはずはないことを証言している」
 人が石に出会う。
 それは、どこかの十字路で遭遇……というよりも「遭難」と呼んだほうがしっくりくる。
 石に驚愕する。唖然とする。
 いってみればそれは、道を歩いていて突然、穴に落ちるようなものだ。気がつけば、人は穴のなかに転がっている。穴は底なしのようだが、暗闇には、見たこともない無数の光が散らばっている……。
 カイヨワがいう「通告」を感じとるのは、まさにそんなときだ。宇宙という織物にふれている。世界という巨大な迷宮の存在を、人はありありと感じる。
 (略)
 「太古が放散する磁力、中心からのヨビゴエ」とカイヨワが描写する石が、時代の潮流のなかで存在感を増している。
 もしかしたら、と思う。わたしたちは、慣れ親しんできたものを超えて、より遠いもの、より深いものを希求するようになっているのだろうか?
 遠いものを近くにすること、これまで生きてこなかったものを生きること、
忘れていたものに出会い直すことを、無意識に指向しはじめているのだろうか?(徳井いつこ「驚くべきもの、だたそこにあるだけ。」『ユリイカ』第56巻第11号(2024年9月号)p.57-58)

現在上映中の芋生悠監督の映画『解放』(2024)には、象徴的に岩が登場する。岩に触れることは「宇宙という織物にふれている」ことに他ならない。また、現在神奈川近代文学館で開催中の『大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす』(2025)で取り上げられる大岡信は、「書くことの不可能」から「ほうとした気分」こそ重要と訴えたが、カイヨワの言う「石からの通告」を聴き取るべしに通じる。映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)』(2022)では実際に石の身になることで「石からの通告」を聴き取っているではないか。東京国立近代美術館ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint/1862-1944)の展覧会が開催されるのも、あまりに近視眼的、刹那的な社会にあって、人々が「慣れ親しんできたものを超えて、より遠いもの、より深いものを希求するようになっている」ことの反映だろう。「石に遊ぶ」はまさに時宜を得た企画と言えよう。