展覧会『福濱美志保「The Circle Game」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2025年4月5日~20日。
人形など小物を配し、あるいは景観そのままに、山形と沖縄の屋内外で撮影した写真をもとに描かれた作品で構成される、福濱美志保の個展。
表題作《The Circle Game》(606mm×606mm)は、赤い台(箱?)上の椅子と松毬(?)の白いオブジェとがカップ蝋燭の炎に照らし出される場面を描いた作品。暗い空間の左側に縦に高く伸び上がる蝋燭の炎があり、その光を受けた白いオブジェがややオレンジ色を帯びる。蝋燭の明るさ、温かみが闇を背にした白いオブジェによって強調される。炎(蝋燭)が2つあることから、奥側(画面左端)の炎と椅子と松毬(?)のオブジェとは鏡像であることに気付く。画面右側手前に暈けた椅子と松毬(?)が実物なのだ。
いわば、生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられたのである。この距離、この隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源であることは、私には疑いないことに思われる。
私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.206)
自らを映し出す鏡は、自己を自らの身体から切り離す、私を外部化する装置である。鏡は自らが自らとの間に距離を生み、思考を促す。
視覚革命のもたらした最大のものは距離という猶予――対象からのずれ――であり、猶予の中身としての疑うことすなわち思考であり、思考の外在化そていの言語、何よりもまず文字すなわち原=文字――世界を意味としてつまり文字として見る能力そしてそれを解釈する能力――にほかならなかった。それらがすべて言語革命への潜勢力としてあったことは、私には疑いないと思える。
(略)
言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは、俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといっていい。(略)
視野の向う、すなわち地平線の、水平線の向うには何があるか、という問いは、俯瞰する眼にとってはきわめて自然だったろう。同時に、騙されないように細心の注意を払って行われる狩猟や採集の時間が、俯瞰する眼によって――いやそれ以上に視覚が必要とする距離すなわち思考によって――空間化つまり図式化されるのは必然であり、その図式が無限に延長されるのもまた必然である。要するに昨日があり明日があることは、変化を感知する能力にとって、自明のことにならなければならなかった。人間が日を刻み、年を刻みはじめた段階で、歴史はすでに始まっているのだ。(略)
人が現世と来世、この世とあの世とを考えるのは、俯瞰する眼にとっても、視覚が必要とする眼にとっても、不可避だっただろう。(略)
思考の領域が行動の領域から自立することと、記憶の領域が自立することとは表裏である。記憶は思考の素材であり、図式化されるべきものの筆頭である。あの世の体系化は、この世の体系化にこそ役立ったのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.478-480)
蝋燭の炎は生命のメタファーである。炎が点る実物の空間の明るさに対し、鏡像の背景――鏡の中――に拡がる闇は、この世(実像)とあの世(鏡像・虚像)とを象徴するのである。鏡面は言わば三途の川である。オブジェとともに光沢感のある床に映り込んだ光ないし影を描き出した同系統の作品が《River》(970mm×1620mm)と題されているのはその証左である。また、幽明境を異にすることは繰り返される。蝋燭の円(circle)、そしてその連なりにより永遠(≒∞)に繰り返されることが暗示されている。それが作家の意図する"The Circle Game"であろう。靴や浮きなど漂着物の打ち上げられた浜辺を描いた《Beach》(606mm×410mm)は水陸の境界であり、寄せては返す波が、《The Circle Game》に共鳴する。
言語革命は死後を発明しただけではない。
この世をあの世に変えたのである。
出生した赤子に名を与えることはこの世に位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名はすでになかばこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを許すことなのだ。(略)人間は死者に立ち混じって生きること、死者を生かし続ける術を発明したのである。(略)
人は生きるために死という広大な領域を発明し、そのなかに立ち入ったのである。
人間は生と死を転倒させたといっていいが、そのようにして初めて生を意識しえたのだ。(略)
人間の表現行為はすべて、基本的に死にかかわっている。
あの世の視点に立ってこの世を生きることになったからである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.480-481)
草地に置かれた水晶のようなオブジェを描いた《Tenderly》(606mm×410mm)は、輝くオブジェが視覚革命をもたらした光を象徴する。光は神ないし霊、そして言葉のメタファーとなる。《Somersault》(727mm×727mm)の重ねた石の上に置かれた椅子は、石が磐座だることを伝える。《Stardust》(530mm×727mm)の石ころの中に置かれた人形、陽が沈む景観を画く《DUSK》(455mm×455mm)の交通標識や電柱の列、《Beach》の鉄塔、さらに《Lake》(500mm×652mm)は依代であろう。依代により、「あの世の視点に立ってこの世を生きる」、すなわち「この世をあの世に変え」てみせるのである。