展覧会『ヒルマ・アフ・クリント展』を鑑賞しての備忘録
東京国立近代美術館〔企画展ギャラリー〕にて、2025年3月4日~6月15日。
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klin/1862-1944)の回顧展。
ヒルマ・アフ・クリントは、テクニスカ・スコーラン、さらに王立芸術アカデミーで美術を学んだ後、風景画を始めとした伝統的な絵画、雑誌や絵本の挿絵、医学的な解剖図譜などを手掛ける職業画家となった。写真家ベルタ・ヴァレリウスなどの影響などから心霊主義、神智学に親しんでいたアフ・クリントは、親しい女性たちと結成した「5人(De Dem)」で行った降霊会で霊的存在から絵画を描くよう啓示を受け、「神殿のための絵画」シリーズ193点を制作した。人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーのゲーテアヌムに作品を展示することを企図するが不調に終わり、自らの過去作品の整理や記録の編集に勤しむとともに自前の展示施設の建設を模索した。
2018年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で「Hilma af Klint: Paintings for the Future」が開催され、抽象絵画の先駆者としてヒルマ・アフ・クリントを評価する気運が一挙に高まった。日本でも、岡﨑乾二郎が著書『近代芸術の解析 抽象の力』(2018)で、権瓶千尋と森岡美樹が展覧会「声になるまえ」(トーキョーアーツアンドスペース本郷、2020年)において、表題作の映像作品でヒルマ・アフ・クリントを取り上げている。2022年にはドキュメンタリー映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界(Beyond the Visible – Hilma af Klint)』(2019)が公開された(本展開催に合せ、再上映中)。こうした潮流の中で、本展によりヒルマ・アフ・クリントの作品が日本でも展覧に供されることになった。
「神殿のための絵画」シリーズを中心に、スケッチやノートも含めた作品が、生涯に沿って、第1章「アカデミーでの教育から、職業画家へ」、第2章「精神世界の探求」、第3章「神殿のための絵画」、第4章「『神殿のための絵画』以降:人智学への旅」、第5章「体系の完成へ向けて」の5章で展示される。
第1章では、アカデミーの教育の成果を示したデッサンや風景画、さらにはイラストレーションなどが並び、続く第2章では、植物的なモティーフや波などの幾何学的な形、文字などが組み込まれたドローイングが紹介される。「神殿のための絵画」に連なるモティーフに富んでいる。カタツムリの殻のような螺旋の形が一際印象的である。続く本展のハイライトである「神殿のための絵画」の一部を成す10点組の絵画《10の最大物》では、青と黄の組み合わせが繰り返される。
アフ・クリントは昨今、抽象の先駆者という称号を与えられている。その真の新しさとは、色と形による抽象化の過程で、彼女なりのジェンダー観に即したコードを与えたことではないだろうか。こうしたジェンダー観に影響を与えたのは、彼女が同時期に吸収していった神智学などの学問や、当時社会的な議論を呼んでいたダーウィンの進化論であった。例えば《原初の混沌、WU/薔薇シリーズ、グループⅠ、No.16》(1906-07)では、青と黄色の関係性が一貫して問われているが、アフ・クリントの手記によれば、青は女性性、黄色は男性性を意味する。また、画面の左上から右下まで伸びていく螺旋もまた、ジェンダーの概念を内包している。緑のような青と黄色の2種類の螺旋は、神智学者アニー・ベサントの理論に基づき、左回転は男性性、右回転は女性性を意味することから、アフ・クリントはこの作品で、右回転と左回転の螺旋がどのように呼応し合うのかを考察しているようだ。このような青と黄色の螺旋の探究は《10の最大物、グループⅣ、No.3、青年期》(1907)でも展開されている。
そもそも螺旋は、「5人」での活動時に頻繁に描かれていたカタツムリをより抽象化したものである。アフ・クリントはダーウィンの進化論の影響から、カタツムリの属性である両性具有に強い関心を抱いていた。時にアフ・クリントの両性具有に対する関心は、「W」と「U」を融合した文字体へと変換されて「原初の混沌」シリーズの画面に頻繁に登場する。アフ・クリントの手記によれば、「W」は女性を、「U」は男性を指し、ここでも再び、ジェンダー化されたコードが付与されている。ジェンダーの意味を与えられた色と形は、さらに性の問題へと展開する。彼女にとって色と形を描くことは、世界の構造あるいは真理に迫ろうとする手段であり、ジェンダーや性はその重要な対象であった。(井上絵美子「私的な抽象:ヒルマ・アフ・クリント作品における」『美術手帖』1105号(2025年4月号)p.109)
ところで、岡﨑乾二郎は、著書『近代芸術の解析 抽象の力』(2018)で、抽象芸術などのモダニズムの基盤として、フレーベルの「恩物」など児童教育について取り上げている。
感情を持つのは人間や動物のみではない。積み木、紙などを含めたすべての事物、万物が生気を持っている。万物がその生気を持って触発し、働きかけてくるのである。
ゲーテの自然哲学を実装したともいえる、フレーベルの《恩物》と呼ばれる教育遊具は、調和あるいは運動あるいは数学的秩序などの抽象的=超越的な観念を、玩具を操作がするという具体的、触覚的な身体行為を通して子供たちに直感的に把握させようとするものだった。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現われている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能となる。(略)
(略)
こうして、子供たちは事物の内側から対象の本質を理解することを促される。たとえば《第二恩物》の立方体、円柱、球の3種の幾何形態は、回転させると立方体は円柱に変容し、円柱を回転させると球と円錐が現れ、回転軸を変化させれば立方体の内側に球体が現われ、立方体に球体が含まれていたことが直感的に把握される。(岡﨑乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.35)
ヒルマ・アフ・クリントの絵画に登場する螺旋もまた、フレーベルの《恩物》同様、回転による変容を表わすものと言える。絵画は、鑑賞者に対象の本質を理解する手立てを提供する「掛図」である。
(略)進歩主義的な児童教育、近代的な生活改革=合理化運動、女性解放運動はつながっています。アフ・クリントは当時のスウェーデンの文化の先端で起こっていた、これらがすべて連動した文化運動の中心にいました。そして既存の規範、常識的知識が扱ってこなかったもの、従来の社会秩序から排除されていたもの、周縁、外部のものから学ぶことができるという信念をもとにすることにおいて、これらはすべてスピリチュアリズムにつながっていた。(略)その意味で、ここで言うスピリチュアリズムとは、いまだ未知の世界を含む宇宙のすべては秩序づけられていて、やがて人間の知性もそれが理解できるという、まさにコメニウスの思想に代表されるところの汎知学でした。つまり、スピリチュアリズムが興隆した背景には、認識論的なパラダイムの転換が問題群として含まれていた。故に新たな発見が加速していた時代、科学者の多くがスピリチュアリズムになんらかの関わりを持った。また、近代に生まれた美学そして芸術という概念には、既存の概念=理性、悟性では理解できないものを理解する役割、つまり感性を通して新たな概念を獲得するというボトムアップの可能性が託されていたわけです。こうした真っ当な意味での芸術の役割をアフ・クリントは自覚し、まさに科学者のように体系的に実践したわけですね。その徹底さにおいて、比類する芸術家はほぼいない。(岡﨑乾二郎・三輪健仁「ヒルマ・アフ・クリントを見るとは、どのようなことか?」『美術手帖』1105号(2025年4月号)p.114〔岡﨑乾二郎発言〕)
「既存の概念=理性、悟性では理解できないもの」への接近を詩を通じて試みたのが大岡信である(神奈川近代文学館で『大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす』が開催中)。
大岡のその流儀は22歳の作「現代詩試論」にすでに明らかである。
「詩について散文で語ることは至難である。どこにもこれら2つの関係が完全に融和している模型はないし、そうしたものがありうるかどうかもわからない。そこにはいつでも手さぐりの歩みよりがあるばかりだ。ヴァレリーが自作について語ったものがいい例だ。彼は決して自作の詩のすべてをつかんではいない。むしろ、つかめないことによって彼は「海辺の墓地」という詩をもっともよく説明したともいえるのだ。」
逆説である。詩人は自分の書いていることが何であるかほんとうは知らないのだと述べているのだ。だからといって批評家に可能かといえば、それもあやしいというのだ。いわば書くことの不可能を書いているようなものである。まさに真実というほかないが、しかし22歳の詩人にいえるような言葉ではない。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.148)
詩人には「既存の概念=理性、悟性では理解できないもの」を捉える能力が備わっている。その能力は言わば霊媒(medium)として実践される。
宗教家や霊能者は凄まじい神に触れている。常人では感知しえない神の「ことば」を宗教家らは感得する。彼ら彼女らの感性は鋭敏であり、計り知れない世界を行き来しているのだ。宗教家以外に神を感得しうる者は確かにいる。それは詩人であり、芸術家である。当然、宗教家や霊能者も詩人の資質をもつ。
宮古島の霊能者カンカカリヤの根間カナは、少女時代、詩を書くのが好きだった。「詩を書いていると、波の音が人の声になった。あるときは女の人が波の音にのって話をする。あるときは男の声が風の音にまじって聞こえる。女の気持ちで詩を書いていると女文字になり、男になって書くと男の字になったりする。女らしい文章が何行か続くと、そのあと男の文章になることがある。カナは自分が書いているのではなく、何者かがカナに書かせているのを感じた。そのときカナは自分がふつうの人間ではないことをなんとなく知った」〔引用者補記:谷川健一『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』、河出文庫、2022年〕
この文章を読むと、根間カナは類いまれな詩人の資質をもっていたことがわかる。波や替えの音は自然の「声」であり、自然が人の言葉で語りかけてくる。それも、女の声と男の声で話しかけてくる。カナは「何者かに書かせられている」という自覚をもつ。この自覚により距離は保たれ、書かれた言葉はカナのものともなる。だが、ここには明らかに魂の「明け渡し」がある。自然の声なき声を聴き、自然に潜む何者かの感情を自身に引き受け、己の内面の「素材」をかの者に明け渡し、自由に語らしめるのである。(江尻潔「魂の明け渡し」『美術手帖』1105号(2025年4月号)p.71)
言葉、論理、理性で捉えきれないものを捉えよ。ヒルマ・アフ・クリントが鑑賞者に対して課した宿題である。