可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『けものがいる』

映画『けものがいる』を鑑賞しての備忘録
2023年のフランス・カナダ合作映画。
146分。
監督は、ベルトラン・ボネロ(Bertrand Bonello)。
原作は、ヘンリー・ジェームズ(Henry James)の小説「密林の獣(The Beast in the Jungle)」。
脚本は、ベルトラン・ボネロ(Bertrand Bonello)、バンジャマン・シャルビ(Benjamin Charbit)、ギョーム・ブレオー(Guillaume Bréaud)。
撮影は、ジョゼ・デエー(Josée Deshaies)。
美術は、カティア・ビシュコフ(Katia Wyszkop)。
衣装は、ポリーヌ・ジャカール(Pauline Jacquard)。
編集は、アニータ・ロス(Anita Roth)。
音楽は、ベルトラン・ボネロ(Bertrand Bonello)とアンナ・ボネロ(Anna Bonello)。
原題は、"La Bête"。

 

グリーンバックのスタジオ。少し前へ。向きを変えて。ガブリエル・モニエ(Léa Seydoux)が監督(Bertrand Bonello )の指示で動く。ここは邸宅のリヴィングです。階段は左手、右手にはキッチンの窓があります。テーブルの上にナイフがあります。テープで印がしてあるのが分かりますか? そこに獣の影が現われます。流れは摑めましたか? 大丈夫。髪を後ろに流して下さい。そうです。私に向かって2、3歩歩いて下さい。大丈夫ですか? 準備は整いました。自分のタイミングで始めて下さい。足音がする。ガブリエルは恐る恐る後退し、テーブルのナイフを取る。音に反応して周囲を警戒する。振り向き、絶叫する。
1910年。サロンでガブリエルは夫のジョルジュ(Martin Scali)を探す。ポリーヌ(Pauline Jacquard)、夫を見なかった? さっき別の部屋で見たわ。ガブリエルは再び歩き廻る。ジョルジュに会わなかった? 髪に羽根飾りをした女性(Alice Barnole)に尋ねる。居間にいたわ。一緒に暮らしている人を探すのは何故なの? 引き続き夫を探していると、ガブリエルは女性(Céline Carrère)に声をかけられる。楽しんでる? 大いに。夫を見失ってしまって。チャンスじゃない。楽しみなさいよ。度を越すくらい。ご主人は工房に急いで向かったわ。アントン(Lukas Ionesco)に会ったことは? いいえ。ガブリエルはアントンを紹介される。部屋を貸したのよ。作品を展示してるわ。時代の明るさと同じくらい力強く影があるの。アントンがガブリエルを案内する。奥の居間を通り過ぎて右へ。お連れしましょうか? 大丈夫。飲み物は? もう飲んでるわ。手袋に隠してるものがありますね。退散しますよ。作品を気に入って頂けたら幸いです。ガブリエルはアントンの作品を展示した部屋へ。絵画を眺めているとルイ・ルヴァンスキ(George MacKay)に尋ねられた。どう想います? 暴力的ね。まともじゃない。でも十分美しいと思うわ。彼に描いてもらえますよ。一度も経験ないわ。変わらぬ魂を持ち続けているけれど。覚えていらっしゃいますよね? 何を? お会いしたことがあります。そうなの? ローマで。3年前。『蝶々夫人』の後の晩餐会です。叔父や叔母といらっしゃっていた。深緑のドレスをお召しになって。ナポリよ。6年前ね。母と兄と。あなたは私のことを覚えていないわ。枝葉末節はともかくあなたのことは覚えています。何故? あなたと言葉を交わしたからです。それからはよくあなたのことを思い出します。帰途であなたが私におっしゃったことをお忘れですか? フランス語でした? 混ざっていました。あなたに思い出して頂くのが適切かどうかは分かりません。構わないわ。人を過去に戻すことは危険だと。そこから離れるのが良いと。忘れ難いことです。実際に起こったのですか? あなたの言いたいことは分かるわ。そんな秘密をあなたに打ち明けていたなんて。知っているのは私だけですか? ええ。誰にも伝えたことはありません。それは賢明ね。2人が椅子に坐って話していると、ポール・ポワレ(Pierre-François Garel)が現われ、ガブリエルのピアニストとしての稀有な才能を称讃し、いつか服を提供させて貰いたいと告げて立ち去る。2人は屋外で立ち話をする。今も同じ気持ちですか? 何でしたっけ? あなたが幼い頃に感じられたという、恐ろしい何かが必ず起こるという宿命の感覚です。あなたはその宿命に呑み込まれるだろうと確信していらっしゃいました。消滅させられると。他には何か言っていました? あなた自身と親しい人たちに災厄をもたらすので関係を持ちたくないと。その通りよ。何も起こらなかったわ。それでも結婚はされたんですね。どうして知っているの? 手袋の中に結婚指輪がありますから。その通りね。ご主人は? 知らないわ。危険を冒したのは確かね。若くロマンティックだったの。今ではもう遠い昔のことのようだわ。獣のようなものが突然現われてあなたや周囲をもの全てを破壊するとおっしゃっていました。あなたは何て答えたの? 何も。確かに恐怖を覚えました。まだ幼すぎたのかもしれません。煙草を手にした女性がガブリエルが男といるのを目敏く見つけ、話しかけて来た。ガブリエル、絵画はもうご覧になったかしら? ええ。ジョルジュは? 屋内のどこかにいると思うわ。じゃあ、挨拶させて頂くわ。彼女が立ち去る。2人は屋内に戻る。結婚生活はいつも安逸という訳にはいかないわ。それは残念ですね。あなたを解放させて差し上げます。お願い、私と一緒にいて。私は気が触れていると思う? いいえ。理解出来たと思います。私の強迫観念は特定の現実と結びついていると? 特定の現実? なるほど。あなたの傍で私が獣を見張ることは可能です。でも、あなたがもう虞を抱いていらっしゃらないのなら無意味でしょう。本気で言ってるの? もちろんです。怖がるフリなら出来るわ。あなたが私の傍で見張っていたいなら。たとえあなたが覚えていらっしゃらなくても、あなたは自らの秘め事を私に漏らして下さいました。私に何かを託したということでしょう。たとえ遙か昔の出来事だったとしても。あなたはどうなの? もう怖くないの? もちろん、危険を冒すと腹を括っています。私も以前ほどは若くないですから。心を揺さぶられたわ。
ガブリエルは部屋の片隅にいる夫の姿を目にし、夫のもとに向かう。を見つける。どこにいたんだい? あなたを探していたの。

 

2044年。パリ。人工知能アルゴリズムにより7割近くの人間は働くことなく安逸な暮らしを送り、人間に残された仕事は極めて単純な業務のみとなった。環境の悪化を避けて渡米したもののすぐさま内戦が勃発したために中国で幼少期を過ごしたガブリエル・モニエ(Léa Seydoux)は公教育の埒外にあったために感受性豊かに育った。知性を生かして社会に貢献する仕事がしたいと望むガブリエルは「浄化センター」に通う。システム(Xavier Dolan)から感情を抑えるプログラム――仏教の過去生理論を応用したトラウマに対するショック療法――を推奨されるがガブリエルは感情の消失を憂い躊躇する。ガブリエルは帰りがけに「浄化センター」を訪れたルイ・ルヴァンスキ(George MacKay)に出会う。ガブリエルはアシスタントAIに説得され、DNA浄化プログラムを受けることにする。ガブリエルは1910年のパリでピアニストとして脚光を浴び、人形製造業者のジョルジュ(Martin Scali)を夫としていた。ガブリエルはサロンでルイに声を掛けられる。数年前にイタリアで出会った際に避けがたい破滅に対する恐怖を打ち明けられたと。

(以下では、全篇の内容について言及する。)

2044年、ガブリエル・モニエは公教育を受けなかったために感受性が豊かに育ち、人工知能により管理される社会から与えられる温度管理の単純作業に厭気が差していた。不満を抱くガブリエルは社会に適応すべく「浄化センタ-」で感情を除去する矯正プログラムを受けることになる。「浄化」と呼ばれるプログラムは、過去生を体験させてトラウマ的な惨事に向き合わせる、一種のショック療法であった。ガブリエルは「浄化センタ-」でルイ・ルヴァンスキに強い愛情を抱き、またプログラムの進捗状況を監視するアンドロイドのケリー(Guslagie Malanda)を感化してしまうほどガブリエルは豊かな感性を保持していた。
1910年でピアニストのガブリエルは人形製造業者のジョルジュの妻となる。ガブリエルは愛するルイと夫の人形製造工場を見学し、折りからの大洪水で発生した漏電による火災に巻き込まれる。また、2014年ではロサンゼルスでモデルとしてCMに出演しつつ、豪邸の留守番のアルバイトをしている。ガブリエルは女性に対して強い執着と嫌悪を抱くルイと出会う。2044年のパリに人通りはほとんどなく、出歩く人々はマスクで顔を覆っている。労働する人間はごく単純な労働にだけ従事している。
ガブリエルは、1910年には芸術家であり、2014年にはモデルであり、2044年は単純作業に従事する人間は限りなくロボットとなってしまった。他方、1910年に人形は磁器からセルロイドに変わり、2044年には人間と区別がつかないアンドロイドとなった。人間がロボット化し、ロボットが人間に近付いた近未来の姿が描かれるのである。
ところでユートピアとは合理性、効率化のために全てが管理された社会である。本作の描かれる近未来は、感情が可能な限り除去されることでユートピアに限りなく近付いていると言える。
けもの(bête)とは感情のメタファーである。けもの=感情に対する恐れを抱き、けもの=感情を絶滅させた社会。それはもはや人間の社会ではない。そのような社会の実現を望むことこそ恐れるべきではないか。クロージングクレジットが機械を介在させなければ認識できない符丁(QRコード)となったのは、その暗喩である。けものは要る。