展覧会『三輪途道「沈黙の犬」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY TAGA 2にて、2025年4月3日~5月2日。
犬を表わした彫刻作品「沈黙の犬」シリーズを中心とする、三輪途道の個展。
「沈黙の犬」は、突き出した鼻や立ったり垂れたりする耳、肢や尾などを僅かに抽象的に表わした犬の塑像。赤ないし黒の漆が塗られている。ビー玉のようなものが埋め込まれてボツボツが付いているものがあり、毛の模様にしては不自然で、膿皮症にしてはボツボツが大き過ぎるが、いずれにせよ若干の怖さを感じさせもする眼を惹く表現である。しゃがんでいるのは「ハチ」、丸まっているのは「リュウ」、坐っているのは「モモ」などとタイトルに付されていることから、それぞれの犬にはモデルがいるのかもしれない。彫刻にせよ犬にせよ言葉を発することはないにも拘わらず「沈黙の犬」と題されているのは何故だろうか。
耳や肩にボツボツのある犬の横向きの胸像のレリーフ《沈黙の犬》が1階の会場の壁に掛けられている。灰白の犬の周囲は黒く塗り込められている。1階の壁には、白い画面の左上に2足のスリッパを立体的に表わして水色に塗ったレリーフ《地球とスリッパ》、あるいは無数の穴の開いた黄緑の画面の右下に立体的に椅子を表わしたレリーフ《地球と椅子》も飾られている。スリッパを履いたり、椅子に坐ったりする人間の姿が表わされていない。人間は「去ぬ」。人間の不在ないし死の表現とも言えよう。人間が言語を用いる点で他の動物と異なることから人間は言葉を象徴するのだから、《地球とスリッパ》や《地球と椅子》は言語の不在、すなわち沈黙を表現するとも解される。彫刻を介して作者と鑑賞者とがコミュニケーションするのに言葉は必要ない。だが、およそ存在のためには場が必要となる。コミュニケーションのためには場が共有されなければならない。その場とは、世界とも地球(the earth)とも言い変えられよう。彫刻もまた存在のために地(earth)が必要である。会場は1階と2階とから成り、鑑賞者が2階へ上がる際、上階の床が目線の高さに来る瞬間がある。彫刻「沈黙の犬」だけでなく《黙する背中》や《黙して寝る》といった犬を象ったレリーフ作品もまた(1階のように壁に掛けられるのではなく)床に置かれて壁に立て掛けられることで、床≒地(earth)が印象づけられるよう仕組まれている。存在における前提でありながら等閑に付される場を知覚させる狙いがあるのだ。ジョージ・バークリー(George Berkeley)によれば、「あるとは知覚されることである(Esse est percipi)」。もっとも晴眼者ならば見えているとは限らない。知覚は働かせねばならないのである。沈黙の犬はそう訴える。だから沈黙の犬は決して沈黙しない。「沈黙の犬」とは「沈黙の去ぬ」(「の」は主格)のことであった。