展覧会『めぐる いのち 熊谷守一美術館40周年展』を鑑賞しての備忘録
豊島区立熊谷守一美術館にて、2025年4月15日~6月29日。
熊谷守一(1880-1977)の終の棲家の地に、熊谷守一の次女・榧が熊谷守一美術館を創設して40年を迎えたことを記念した展覧会(2007年に所蔵品の寄贈先の豊島区の施設となった)。第1展示室(1階)では、熊谷守一の家族に纏わる絵画など20点(館蔵品と岐阜県美術館所蔵品とが中心)や関連資料を展観。第2展示室(2階)では熊谷守一の初期から晩年までの絵画19点を時代順に並べ、第3展示室(3階)では熊谷守一の墨彩画・書・素描とともに制作道具などを紹介する。以下では、「めぐる いのち」をテーマとする第1展示室を取り上げる。
熊谷守一は岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)の出身。地主で機械紡績業を営む父・熊谷孫六郎(《父の像》(1905)[3])は岐阜市長や代議士も務めた。生母タイ(《母の像》(1905)[02])とは早くに引き離されたため、亡くなったときに育ての母が亡くなったときほどショックを受けなかったという。
《蝋燭》(1909)[01]は蝋燭を前にした作家の自画像。手にした蝋燭の灯りでに闇に浮かぶ。蝋燭の灯りが弱いのか、闇が深いのか。いずれにせよ暗い。灯りに照らし出される人物を描いたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour)のように明暗がはっきりしているわけではない。それでも東京美術学校の同期・青木繁の自画像(1909)には通じるものがある。
《某婦人像》(1918)[04]の像主は後に作家と結婚する大江秀子。顔に補色の赤と緑を積極的に用いる他、着物などに黒田清輝の《黒扇》(1908-09)に見られるような青を差している。
《赤坊》(1926頃)[05]は眠る赤ん坊の上半身を顔を中心に捉えた作品。自己と他者との関係が未分化である赤ん坊は茶色い周囲に溶け込むように描かれている。友人信時潔の長女はるがモデル。信時潔は作家が「好きなものは子供、わけて生まれたての赤ン坊」と述べている。次女・榧が抱く赤ん坊の「イモムシのような」形を面白がって描いた作品《母子像》(1965)[17](作家はうまく描けなかったと述べたという)も第1展示室に並ぶ。
《陽の死んだ日》(1928)[07]は、次男・陽の亡骸を描いた作品。左手前に蝋燭が置かれ、中景に右手前から左手奥に向かい横たわる陽の上半身が描かれる。目を閉じた陽の顔がは黄土色で、取り囲む着物の朱によって視線が誘われる。僅かな朱で覆われた蝋燭の灯りと陽の顔とはパラレルである。それもそのはず陽とは光なのだから。作家は朱で命を包み込もうとしたのだろう。だから朱の線は後に熊谷守一の絵画を象徴するものとなったのではないか。翻って《陽の死んだ日》では、肺炎で苦しむことのなくなった幼子を揺り動かさんとするばかりの荒々しい描線が作家の激しい動揺を伝える。「陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました」と作家は回顧している。
肺結核で病床にある長女・萬をスケッチした《萬の病中》(1947)は描線が二重になっている。命を繋ぎ止めようとの意志が作家に働いたものだろうか。《仏前》(1948)[13]は萬の仏前に備えた黒い盆に載せられた卵を描いた作品。山吹色の画面には2本の燭台とともに黒い楕円の盆、その中に白い楕円が3つ並ぶ。熊谷守一の代表作《ヤキバノカエリ》(1956)[15]には、緩やかな坂道を下る作家、萬の骨壺を抱える長男・黄、次女榧の姿が描かれる。褐色の茶、黄土色が支配する画面で、中央付近に配された白い骨壺が眼を惹く。《仏前》の白い円(楕円)の生に対して、《ヤキバノカエリ》の白い正方形は死を表わすようだ。
黒い画面の中に茶の円を黄土色の円が囲む《夕暮れ》(1970)[20]が第一展示室の掉尾を飾る。円は沈む太陽とともに生命を表わすのだろう。ここでも命を繋ぐ朱の線が印象的である。日はまた昇る。ならば命もまた巡るだろう。灯火から太陽へと卵の円(楕円)を介して循環する、「めぐる いのち」の見事な構成である。